2008年11月15日
スターフィッシュ[2]
1987秋
ちょうど十年前。
「ヘイ! ユー」
目つきの悪い空港警備員に呼び止められたのは、国内線に乗り換えるためにタクシー乗り場を探そうと空港ロビーのインフォメーションをめざして歩いている時だった。当時セブ島への直行便は日本からは出ておらず、ニノイ・アキノ国際空港を一度出て、隣接している国内線専用の別の飛行場でフィリピンエアラインに乗り換えなければならなかった。旅行会社に頼らず自分たちでアレンジしたこのバカンスは、当然ながらガイドもいなかったから、二人ともかなり緊張していて簡単にこれにひっかかってしまったのだ。
パスポートを見せろ、という。よく考えれば入国手続きは済んでいるし、警備員にパスポートを見せる理由も必要もないのだが、大柄な褐色の肌で、警官のような制服に威圧されたものだから、そんな理屈まで頭がまわらない。盗難されないようにとウエストポーチの二重のポケットに厳重にしまい込んだパスポートはなかなかひっぱりだせなかった。有紀はもっと動転していて何をしていいかもわからない様子。警備員は日本人カップルの旅慣れない風体を見て、旅券に難くせをつけてお金を巻き上げようと思ったところまではよかったが、二人の小心者の計算外のパニックは集金を予想以上に手間取らせてしまい、その様子がロビーに入って来れない人達が鈴なりになっているガラスの壁からのさらしものになっていた。ガラスごしに聞こえてくるこもった罵声とも嬌声ともつかない騒ぎは、連中が彼の小さな悪行をはやし立てていたのかもしれない。ついにイライラが募った警備員は、
「マネー、マネー」
とだけ押し殺した声で凄んできた。
入国手続きに不備でもあって面倒なことになるんじゃないかと不安だった僕は、なんだそうか、ゆすられているんだ、とわかると逆にほっとした。ポーチの小銭のポケットを探り500円硬貨を三枚渡すと、虚勢を張っていた警備員の表情が急に卑屈なものに変わっていく。副業を終えてさっさと消えてしまった巨漢に呆れて、到着早々これじゃ先が思いやられるなぁ、って苦笑いしていると有紀は今頃になってプリプリ怒り出す。
「くやしぃー。ただのゆすりじゃないの。警備員が堂々とあんなことやっていいの? まったくもぉ信じられない!」
「僕に怒るなよ。千五百円で済んだんだからいいじゃない」
空港ビルを一歩出るとねっとりと肌にまとわりつく亜熱帯の空気が僕らを包んだ。インフォメーションで確かめたタクシー乗り場は、フリーの客を捕まえようとするうさんくさいガイドや、とにかく何かをわめき散らしている目つきの鋭い連中ばっかりで、ついさっき脅かされた僕らはその中をかき分けてタクシーにたどりつくのもかなりの勇気を必要としたが、ここで引き下がってはいかんと、つないだ手をさらにぎゅっと握りあって、比較的新しそうな銀色のファミリアに乗り込んだ。若い運転手は日本語が少し話せてこの車を大いに自慢する。特にこのケンウッドのカーステレオは高かったそうで、イコライザーのグリーンの液晶バーがダイアナロスの高音に合わせてチラチラと上下していた。3曲目が終わらないうちについてしまった空港ビルは、いかにも国内線専用といった感じで、そのまま待っていると乗り合いバスでも入って来そうな感じがした。待合い室といった方がよさそうな出発ロビーはエアコンもきいておらず、コンクリートの滑走路に面した窓は全開にされていて、天井にとりつけられたGE製の扇風機がうなりを上げている。が、ねっとりと淀んだ空気をかきまわすだけで涼しさとは程遠い。明らかに観光客だとわかるヨーロッパ人達のグループがいくつかいたが、他はほとんど地元の人らしく、サンダル履きや短パン姿はあたりまえ。彼等の持っている荷物は、使い古しの段ボール箱にガムテープをグルグル巻きにしただけというのもあった。そう、「荷物」なんだからそれで充分なんだけど、そんな訳で立派なブルーとレッドの色違いのスーツケースをガラガラ引きずっている僕らはかなり注目を集めてしまった。成田を出る時にはあまりにも軽装で普段着すぎたかなとちょっと後悔した格好、チノパンにポロシャツ姿も、ここではパリッと見えて少し気恥ずかしかった。そんないきなりのローカル色に驚きながら、一歩機内に入ればスペインの血が混じっているのだろうと思わせるとびきりの美人スチュワーデスが3人も笑顔をふりまいており、そのアンバランスな取り合わせが、不安だらけの二人の旅を面白おかしくしてくれていた。
セブ本島の南側に浮かぶ小さな島、マクタン島の空港に降り立った時には、すでに陽は落ちかけていて周りの風景はよくわからない。でもオレンジ色の夕焼けに映えた椰子の木のシルエットがそこらじゅうにあって、リゾート気分を大いに盛り上げてくれる。到着ロビーの外にむらがっている人達は、夕闇に溶け込みそうな色の顔ばかりで、ここもまたさっきと同じかと気後れしそうだったが、よく見れば声高に叫ぶ人もなく、首都マニラから戻った身内を迎えに来た、そんな人が多かった。地図で見ればここから海辺のホテルまで1キロもないのだか、この時間ここから歩いて行くわけにもいかなかった。コーラル・リーフホテルと告げられたサニーのタクシーは無愛想にうなづくと、道路にあいた穴ぼこを曲芸のようによけながらフッとばす。ホテルの入口には守衛が3人、よく見れば肩から下げていたのはショットガンで、そのゲートを過ぎて敷地の中央にあるフロントコテージでチェックインを済ませると、童顔のボーイが荷物を一つ手伝ってくれて僕達の予約した部屋へ案内してくれた。ここは広い敷地の中に白壁の細長いコテージがいくつか点在しており、部屋数は全部で50しかないそうだ。通された部屋は巨大で全てがヨーロッパサイズ。分厚い巨大な木製のドアから始まって、ペイズリー柄のカバーがついているキングサイズのベッド、家族でも入れるんじゃないかと思える、でもちょっと浅い巨大なバスタブ、うなりをたてる床置きのエアコン。こんなにでかいクーラーの機械は見たことがないなぁ。白いテーブルと椅子が置いてあるベランダだけでも6畳ぐらいはありそうだ。この部屋はこぎれいに小さくまとまっている日本とは違い、豪華な調度品こそなかったが、欧米人の大味なスケール感がドーンとある感じで、それを突き付けられて二人とも少々びっくり気味。蝶タイがお似合いのボーイ君が、入口でモジモジしている事に気が付いて、チップを渡し慣れていない僕達は、彼に渡す小銭のペソが見当たらず、またまた焦って荷物をひっかきまわす。結局、えぃ面倒だ、ってまた500円玉を渡してしまい、ちょっと多すぎじゃないの、勘違いされちゃうわよ、と有紀に文句を言われる。腹ぺこで夕食を取りたかったけど、マニラからここまでは日本人は僕達だけだったから、とにかく気を張ってここまでたどり着いて… とにかくクタクタで、ここでゆっくりしよとルームサービスを彼に頼もうとしたら、そんなこと言わずにレストランにおいでよボクが案内するからさぁ、という様なことを言われた。
プールサイドにあるメインのレストランは2、3組の客がいるだけでガラガラだった。ほんの少し日本語ができる童顔のボーイ君は、エディって呼んでくれとウインクをしながらウェルカムドリンクだと、フルーツが山のようにささったよくわからないトロピカルカクテルを持って来てくれた。
「とうとう来ちゃったね。よくたどり着いたなぁ」
「なんで今頃突然有給なんだって、課長が文句言ってるのが目に浮かぶわ」
「11月にまとめて休むやつは会社の敵だろうな。…さぁもう日本の事は忘れよう」
「うん。よーし、一週間は島の人よ」
プールはブルーのライトでライティングされ、大きなトーチが所々で燃えている。頼んだシーフードピラフはエディが運んで来てくれた。彼はさっきのチップのおかげで僕達の専属になってしまったようだ。しばらくすると4人組のギターを持った男たち、みんなお揃いの白いシャツで襟先が広く大きい涼しそうなステージ衣裳できめているおじさん達が、僕らの右奥に座っていた50代ぐらいの金髪の夫婦のテーブルの横で歌い出した。二人はテーブルのまん中に灯された大きな黄色いキャンドルをお互いに微笑んで見つめながらワインを飲んでいる。
僕達もあんなふうになれるのだろうか… あの時は有紀も同じことを考えていたかもしれないな。
4人組はアンディ・ウィリアムスとトム・ジョーンズを何曲か歌い終わると僕達のテーブルへ来た。エディがなんかリクエストしなよ、と目で合図してくる。ひげをはやしお腹がぽんと出たゴンザレス顔のおじさんがジャーンってギターをかき鳴らした。とっさに何にしようか浮かばず困っていると
「キラークイーン。三枚目のアルバムに入ってたやつ。クイーン、知ってる?」
って堂々と日本語で有紀が聞いた。
おいおい、ゴンザレスだよ。そんなものできるわけないだろう。まったくの日本語で言われたこともあるが、案の定4人はみんなで顔を見合わせてヒソヒソ、お前知ってるか?ってやってたけど誰も理解すらできないみたい。
「じゃビートルズできる?」
「オーケーオーケー。ノープロブレム」
ひょろっと背の高いロドリゲス顔が陽気に答える。
「うーん、じゃね、ロングアンドワインディングロード」
有紀は英語を話す気は全くないらしい。下北かどっかの居酒屋で、流しのおじさんに津軽海峡冬景色かなんかをリクエストしてるようなつもりなのだ。ゴンザレスカルテットはなかなかうまかった。彼女がこの歌を選んだのは何か意味があったのかなぁ。初めはそんな事を思っていたけど、生ギターのポロポロがやけに感傷的に聞こえ、ウェルカムドリンクの酔いも手伝って気持ちがふにゃふにゃにほぐれていく。まぁそんなことはどうだっていいや…
「ねぇ明日何する? いろんなことしようね。もったいなくて寝るのもおしいなぁ。そう思わない?」
「あせんなよ。ゆっくりしようよ」
「ゆっくりなんか日本でもできるじゃない。せっかく来たんだからいっぱい見ようよ。私、市場なんかも行ってみたいな。屋台でさ、なんか美味しいもん売ってそうじゃない。あんなの好きなんだぁ。アジアって感じでいいわ。お醤油っぽいよね、なんとなく。そう、魚醤ってのもどんな味だか食べてみたいし」
「食べることばっかじゃん。太るよ」
「このホテルはさぁ、なんかヨーロッパって感じだけど、私ホントはアジアが好きなんだ。お部屋も椰子の葉の屋根とか竹のベットとかそんなんがいいな」
「贅沢言うなよ。ここは安全なんだってよ。結構危ないんだから、この辺は」
「そうかなぁ。鉄砲もってる人に守られてるなんてちょっと変だなぁ」
「なんだよ、さっき空港で怖い目にあったのに。もう忘れちゃったのか」
「観光客っぽかったからよ、私たちが。どこにでもいるわ、あんなの。ちょっと私たち気取りすぎてるのよ。ねぇ、いろんなとこ行こう。ねっ、ねっ」
「うん…。でもさぁここでのんびりしようよ。リゾートなんだからさぁ」
「1人でも行っちゃうわよ。なんかワクワクしてきたなぁ」
お互いにプライベートな時間が制約されて、無理矢理仕事に張り付けられていた環境で、自由に会えるチャンスはそう多くなく、その不満がこのバカンス決行のエネルギーとなったのだが、僕の若さはもちろん一点に集中していてホントは観光なんかどうでもよかった。
でも、有紀の好奇心と南国の太陽と海は、僕の下半身耽溺プランに水をさす。翌朝、有紀はベランダでの朝食の時から半分腰が浮いていて、二杯めのレモンティーを断わるとそこから直接芝生に飛び下りて真っ白な浜辺まで駆け出してしまっていた。夜に到着したので波の音だけは聞こえていたが、こんなに浜辺が近いとは思わなかった。でも、あの勢いは誰も止められなかったな。
「わぁーーい、わぁーーい」
ホテルのプライベートビーチは長さが800メートルほどもあり、小さな入江にはクルーザー用のマリーナまであった。目の前の水平線にはボホール海峡に浮かぶサンタ・ロサ島がかすかに見える。波打ち際から100メートルほど沖までは腰ぐらいの浅瀬で、たぶん白い砂と珊瑚のせいだろう涼し気なライトブルー、そこから先は太陽の光をきらきらはねかえす紺碧のブルーだった。その色の境目あたりに小形のクルーザーが一隻錨をおろしている。がっしりと太い木で組まれた白のビーチチェアが太い椰子の木の根元に所々置かれている以外はなにもない。ホテルも満室ではないのだろう、ここにいるのは僕達を入れても10人もいなかった。浅瀬ではしゃぎまわることは僕も有紀もあっという間に飽きて、自然にこの浜辺の過ごし方がわかり始めていた。
なにもしないこと。ここはそのために用意された場所なのだ。
今日はここで過ごそうと、ホテルの外へ出かけたがる有紀を無理矢理納得させたものの、やっぱり浜辺でただじっとしていることには飽きてしまい、夕方近くになってホテルの敷地を全部散歩してみようと、南の方、ゲートの近くまで行ってみる。敷地と外の境界には高さ4メーターぐらいのフェンスが張り巡らされ、ショットガンをぶら下げた警備員がドーベルマンに引っぱられながら巡回している。外の道路のはるか向こうには人の住居らしきバラック、ほったて小屋みたいのがなん軒か見えた。しばらくフェンスに沿って歩く。外の道路がまた高い金網に沿って伸びている場所に出た。道のはずれに1台のダンプカーが小さく見えていたが、その荷台になにか動くものがたくさんあった。逆光のせいもありよくわからず、確かめようと近づくと、それは粗末な服を着た小学生ぐらいの子供たちで、20人ほどが荷台にむらがって満載された拳ぐらいの瓦礫を道路にあいた穴ぼこに投げ込んでいた。それが彼等の労働なのだ。つかの間のリゾート気分でうきうきしていた僕達は、この国の現実を見せつけられ、ショットガンとフェンスで厳重に守られているその危うさにもショックを受けてしまい、しばらく無言で歩いた。
「凄いね… 私たち恵まれてるわ」
「…… しょうがないさ」
「ねぇテニスしよっか」
有紀がつぶやいた。さっきチラッと見かけたグリーンのコート。少し落ち込んだ気分をスッキリさせるには汗を流すのもいい。フロントでラケットを借りると、そのヨネックスの張りの甘いガットに文句をいいながらも、久しぶりのグリップの感触にわくわくしてくる。コートは全部で4面あって、どれもがまだピカピカ。大柄な40ぐらいのヨーロッパ人の男が、褐色の肌と白いウェアとのコントラストが印象的な青年、ホテル専属のコーチだろう、にボールを出してもらってバックハンドの練習をしている。大きな日よけのついたベンチには、ちょっと化粧のきつい小柄な、地元の人かな、若い女が足を組んでそれを見ていた。
ガット甘さとコートの硬さに慣れるまで、ふわふわとしたストロークが続いたが、10分もすると二人とも感覚を取り戻す。こうやって一つのボールを打ち合うのはずいぶんしてなかったな。日本からわざわざ何千キロも離れたこんなところで、改めて二人でやるテニスもなんだかおかしかった。
しばらくすると、試合をしないか、と大男に申し込まれた。聞けばスイスから来ているそうで、もう2週間もここに滞在しているという。コーチのマイケルはさっさと審判チェアに座ってしまっていてニコニコとこっちを見ている。男と並ぶと益々小柄に見える化粧のきつい期間限定バカンス妻はちょっと不機嫌な顔でコーチにタガログ語で文句を言っていたが、あきらめたようにドネーのラケットを肩にかついでコートに出て来た。でも、よろしくって手を差し出してきた時の笑顔はまるで別人で、大きく襟が開いているTシャツからこぼれそうな胸とむっちりした足は合わせ技一本!で、これにスイス人はまいってしまったのだろう。ゲームは僕達の圧勝。正確にはシングル対ダブルスの対戦と言った方がよく、寝室では男を虜にする魅力的な胸も、初心者の彼女にはプルンプルンと揺れてバランスを崩すだけの邪魔物みたいだった。僕はずいぶん楽しませてもらっちゃったけどね。
コテージの前庭には椰子の葉で屋根が葺いてあるオープンエアーのバーがある。レストランから見えたプールのちょうど横にあり、ひと泳ぎのあとに一杯ということもできそうだ。夕食のあとカクテルでも飲もうと二人でぶらぶら近づくとカウンターの中から僕達に声がかけられた。さっきのコーチ、マイケルだった。昼間はテニスコーチ、夜はバーテンとしてやっているという。日焼けしたちっちゃな顔に白いシャツがよく似合う。このホテルのスタッフになるには、かなり基準の高い審査があるのだろう。どのスタッフも惚れ惚れするいい男揃いで、僕は少し気後れしてしまう。
「君らはずいぶんテニスやってるみたいだね」
「さっきはちょっと試合にならなかったよ。ミスタースイス人には申し訳ないけどパートナーが悪すぎた」
「彼女は専門が違うんだよ。夜がホントの試合なのさ。へへへ」
貧相な英語力でも共通の話題があると十分会話になる。元テニス狂のカップルと南国の現役プレーヤーはすぐに意気投合してしまった。
「マイケルは誰が好きなの?」
「マッケンローかな。彼の動きは芸術的だよね…。僕は彼とやってみたい。近い将来にね」
彼の遠くを見る目がキラリと光ったような気がした。彼はまだ若い。20ぐらいだろう。言葉や人種は違ってもその熱い想いは伝わって来た。
ジントニックを二つ頼むと、マイケルは映画みたいにジンの瓶を空中でクルッと回転させて、リズムに乗りながら酒をグラスに注ぐ。反対側にいた白人の若いカップルがワォッって大袈裟に驚いてみせて拍手を贈ってきた。僕達は渡されたグラスをそのカップルに向けて乾杯ってやると、二人とも自分のグラスを持ち上げて陽気に応えてくれた。彼等はイギリス人で、ハネムーンかって聞いてみたら、ならいいけどね、ってほっそりしたきれいな金髪のスーザンが、意味ありげな表情で笑う。鼻の頭が日焼けでひと皮むけたもじゃもじゃ胸毛のデビッドは、チキン一羽丸ごとのローストを頼めないかカウンターの中のマイケルに食い下がっていた。最初は「そんなのレストランのメニューにはない」って断わっていたが、結局彼が電話であれこれレストランのシェフとやって、結局オーケーってことになった。彼等はもう1ケ月もここにいるそうだ。去年も来たといっている。メニューにない料理を作らせてしまうとこなんか、さすがにバカンス慣れしてる連中で、ホテルのスタッフとも友達みたいな関係になっていて実に羨ましい。
「ユキ、普段はどんなとこでテニスやってるんだい?」
「東京の高〜いコート借りるのよ。安いとこは朝早くから並ばなきゃ取れないの。私たちかわいそうでしょ。テっちゃん、これ通じてるかな?」
「全部日本語じゃわかんないよ。ほらね」
マイケルは両手を左右に広げてアイドントノーのポーズ。僕だってたいしてしゃべれるわけじゃないけど単語並べりゃなんとかなる。
「じゃここまでテニスしに来ればいいじゃないか。コートなんて一日中使えるよ、ボールボーイもつけるからさ」
今度はこっちが両手広げてアイドントノー。
「テツ、明日もやらないか? コーチするよ」
「いいけど」
「じゃ、5時でどうだい。フロント通さなくてもいいからさ。200ペソでいいよ。直接コートに来てよ、ラケットも用意しておくからさ」
マイケルはウィンクしながら流れている音楽に首のスイングを合わせている。どういう意味かわからずに有紀と顔を見合わせたが、彼女も両手広げてアイドントノー。まぁいいか、明日になってみればわかるだろう。
三日目はとうとう有紀にひっぱられる形でセブ市内に繰り出すことになった。でもさすがに地理もわからず言葉も通じないのは彼女も不安みたいで、一人でも行くという勇ましさはひっこんで、ホテルにガイドの手配をしてもらう。紺色の古いクラウンで僕たちの前に現われたのは、バンさんというコロコロに太ったおじさんで、日本語をかなり上手に話した。何が見たいですか、と尋ねられ、すかさず有紀が、
「ヌクマムが入ってるお料理食べられるとこがいい。バンさん、知ってる?」
「ニョクマムね。オーケー、珍しいリクエストですね。お昼に食べましょう」
「観光名所はあんまり興味がないわ。市場とか屋台とか、ここの人達が行くとこがいいなぁ。ねぇバンさん、ガイドとして案内してくれなくていいわよ。私たちのそばについててくれるだけでいいわよ。私自分で歩いてみたいの。いいでしょ」
「危ないとこもあるから、あんまりいいことないけどねぇ。気をつけないと…」
「ボディガードが二人もいるんだから大丈夫よ、ねっ、テっちゃん」
「お前はどこでも同じだなぁ。新宿歩くのとはわけが違うんだよ」
「平気平気。行こう行こう」
僕にしてみればただ猥雑なだけのマーケットや地元の商店街も、有紀にとっては見るものさわるものカルチャーショックの連続で、バンさんは質問の嵐に四苦八苦。僕はトボトボと後ろをついていくだけの金魚のなんとかみたいで、あまりおもしろくない。昼食もわざわざフツーの食堂に入って、僕はチャーハンみたいなものを頼んだが、クセのある油の匂いとパラパラのご飯は、暑さと歩いた疲れも手伝ってさっぱり進まなかった。有紀は念願のヌクマムで味付けされたスープみたいなのを、これが本物のエスニックだわ、と感激しながらすすり込んでいる。ちょっとぐらい食べなさいよ、って無理矢理スプーンを口にもってこられた僕は、あの饐えたような匂いがダメで、バンさんにゲラゲラ笑われた。
僕はいつも有紀をリードしているつもりだったのに、こんなことになると自分が臆病で小心者だったことがわかりちょっとショックだった。でも、今まで気が付かなかった有紀の逞しさ、こんな娘だったのか、という今さらながらの発見も嬉しかった。こんな有紀を見るのは初めてだったんだ。
夕方のマイケルとの約束もあったし、バンさんとの契約も半日ということだったので、どこまでも歩きたがる有紀をなだめて、ボコボコの道をクラウンに揺られながらホテルへもどった。途中、これが私のウチ、って建築中の二階建ての家をバンさんが指さす。日本語ができるガイドは稼ぎがいいんだそうで、おかげて家が建つよ、って喜んでた。
さすがに疲れていて、これからテニスってのもちょっと気が重かったが約束だからしょうがない。時間前にコート近くまでぶらぶら行ってみる。有紀はもうアキレス腱なんか伸ばしてる。切り替えが早いやつだ。この島では少しでも時間をムダにしたくないらしい。まったく貪欲だよ、キミは…。しばらくするとフェンスの横にあった用具小屋の陰からマイケルが音もなくスーと出てきた、と、パラパラと小さな子供も4、5人いっしょに飛び出してくる。よく見れば小学生になっていないかもしれない幼さだ。
「僕の弟たちなんだ。ボールボーイをやらせてよ」
マイケルに約束の200ペソを払い、ちっちゃな助っ人たちにも10ペソづつチップをはずんでも、フロントに払う300ペソよりは安かった。1ペソは約5円。だからたった千五百円ぐらいのことなんだけど…。
レッスンはそれぞれの課題、僕はバックハンド、有紀はサーブを見てもらうことにする。彼は優秀なコーチだった。有紀はわずか1時間足らずでスライスサーブにかなりキレが出てきた。言葉があまり通じないということは、逆に考えると日本語の曖昧なニュアンスやあやふやな表現で惑わされないということで、教えられる方も言葉で理解するよりも、コーチの動きをそのままコピーするようにやるしかないわけだから、かえって確実に体が覚えてくことになった。今僕が得意にしているバックハンドのトップスピンは、この時マイケルにしこまれたものだ。
翌日、プールサイドを通りがかったドイツ人家族に見とれて、有紀におもいっきり背中をたたかれて飛び上がったのをあのイギリス人カップル、デビッドとスーザンに見られて大笑いされた。だってあれはしょうがない。あんな美人の金髪見たことなかったし、あんなにくい込んで、カットが大胆で過激な水着は目がつぶれるかと思った。しかも二人も子供がいて、信じられない光景だったのだ。
「アハハハ。テツ、お前が悪いよ、あれは。口あけてたからな、アハハハ」
「あれを見るなっていうのは無理だよ」
「ハハハハ、俺もそう思うよ。ハハハハ」
「なぁ、これから俺たちと島めぐりしないか」
「デビッドと私はスキューバやるの。いっしょに来ない?」
「どうする、有紀?」
「行く行く! スーザン、私も潜りたぁい」
話はすぐにまとまりデビッドとスーザンは船の手配やボンベの準備にかかった。ビーチの左手にあるマリーナに左右にフロートが突き出た船が入ってくる。クルーは全部で4人。たぷたぷと太っているおじさんが船長であとは若いのが3人、一人はまだ12、3才の少年。今日も海はほとんど波がなく船はゆっくりと沖へ出る。めざすは真正面のサンタ・ロサ島。この周辺には小島が多くきれいな珊瑚礁が見られるそうだ。スピードを上げはじめた船の舳先から時折大きな飛沫が僕達にふりかかる。話し声は風とエンジン音でかき消されてしまい、顔にまとわりつく髪の毛を振払いながら、かっ飛んでいくボートの甲板にただただ必死でしがみついていた。20分ぐい走ったろうか、デビッドが右手を上げて船をとめる。このあたりがポイントの一つらしいが海上からでは太陽の反射でよくわからない。スキューバは初心者がいきなりは無茶だから私たちが潜ってるのをこれで見ててね、と箱メガネみたいなのをスーザンに渡された。有紀と僕は顔をおもいっきりひっつけあって一つの箱からまだ誰も潜っていない海中を覗く。それをデビッドにヒューヒューとはやし立てられ、おまえたちはお似合いのカップルだ、と大いに誉められた。海中はブルーのフィルターをかけられたような世界にウスピンクや白っぽい珊瑚が一面にあり、その上で黄色い魚がたくさんヒラヒラと群れてじゃれあっているように見えた。ホントはもっと深いところがいいんだけどキミたちのために浅いポイントを選んだんだぜ、とデビッドが水中メガネをかけながら言ってくる。
準備が整うと二人は仲良く水しぶきをあげて海中の人となった。でも、狭い視野の箱メガネでは英国人たちの海中散歩を追いきれない。すぐに見失う。
そう、やっぱりそうなると思った。有紀は私も潜ると言い出した。シュノーケルとフィンを借りるとあっという間。あいかわらず即断即決で、ドボンと飛び込んむと僕一人が船に取り残されてしまった。船長がお前もどうだとフィンを差し出すがノーサンキュー。僕は泳げない。背が立たない所は怖くて怖くて。でもここまで来て船上の人というのもちょっと悔しくて、浮き輪を貸してもらいフロートの横から海に入ってみる、が、どうにも様にならないのは万国共通で、若いクルーに指を差されて笑われた。うるせー、オレの勝手だろ。
船の周りで潜っていた有紀が、ひと休みと上がってきてフロートにちょこんと腰をおろし足を海中でぶらぶらさせている。赤い日焼けがトースト色になってきて細い手足がよけいスリムに見えた。
「ねぇテっちゃん、凄いよ。もの凄いよ。おいでったらぁ、潜ってみなさいよ」
「ここからでも見えるよ。わかってるって」
「意気地なし。海は体が沈まないのよ。ここで潜らないなんて信じられない」
「なんとでも言え」
「ほら海へび。きれいねぇ」
赤と黒の縞が入った細いロープのようなものが、うねうねくねりながら僕の足元を通り過ぎた。おもわず浮き輪からだらんと海中にぶら下げていた足をキュッと縮める。
「アハハハ、大丈夫よ。ホントに臆病ねぇ」
「だってあれ毒があるんだろ。しかしお前はたくましいよなぁ。たいしたもんだよ」
「私こんなとこで暮らしたいなぁ。日本なんかに帰りたくないなぁ」
「……」
デビッドとスーザンは20分ぐらいで戻ってきた。二人ともビューティフルを連発しながら、海中からのお土産、白い珊瑚のかけらや小さな薄ピンクのタケノコのような巻貝を披露してくれる。その中に大人の手のひらぐらいの真っ赤なヒトデがいた。白く塗られた甲板にのせられたその色は実に鮮やかだった。
「スターフィッシュ! こいつが白い珊瑚の上にいたんだ」
デビッドは興奮している。
「でも逃がしてやりましょ。お家へお帰り」
スーザンはそっとヒトデを海中に入れて離そうとした。
「待って待って。写真取らせて」
有紀は他のお土産には目もくれず、赤い星形を甲板に置いて何枚かカメラにおさめると、それを微笑みながら見ていたスーザンと二人で海に入れた。ヒラヒラと木の葉が舞い落ちるように赤いヒトデは青い底に落ちていく。この写真はその後ずっと有紀の定期入れに入れられ大切にされることになった。
ヒトデを追いかけるように一番若い少年、船長の息子かもしれなかった、が僕達の目の前からいきなり海へ飛び込んだ。あっけにとられて見ていると、しばらくして濃いこげ茶色をしたウニを二つ甲板に放りあげてきた。彼の兄貴らしいのが、とげを山刀でばりばりたたき折ると上の方を切り取って中身を見せてくれる。食べてみろ、と差し出し笑っている。ええっ、こんな熱帯のウニ、なんていう種類かもわからないのがホントに食べられるの? うそっー、気持ち悪いなぁ。と、もたついていると
「キャー美味しそう。うん、いけるいける、ウニウニ。新鮮よ」
まったく早い。おそるべし有紀。食べないなら私食べちゃうよ、って二つ目も指ですくい取ってあっという間にたいらげてしまった。お醤油があったらよかったのに、のつぶやきに僕は大きな拍手を送った。だから好きなんだよ、有紀ちゃん。白人二人は信じられないという顔をしている。あんなもの食べるなんて、っていうことだろうな。
船首に移動したデビッドは、次の散歩に備えてボンベの点検に余念がない。
「ねぇスーザン、彼と結婚しないの? 有紀も聞きたがってるよ」
「たぶんね。あんまり彼はこだわってないの、一緒にいられればいいじゃないってね。私たちこうやって価値観を共有してるから、そんなことどうだっていいのよ。…ホントはしたい気もするけどね、女としては」
「あなたたちはどうなのよ、まだ若いみたいだけど」
「うーん、わかんないなぁ。それより自分が何をやりたいかがわからないんだ、僕も有紀も…」
「言ってる意味がよくわからないわ。ごめんなさい」
大英帝国の、世界中に飛び出して植民地を作ってきた民族の末裔が、未だに精神的鎖国状態の東洋の島国の未熟者のつぶやきを理解できなかったとしても不思議ではなかった。決して言葉が通じなかったわけではなかったろう。デビッドの作業を見ている有紀もそう思っていたに違いない。これから僕はどうなっていくのか。自分はどこに着地するのか、それを決めることがなによりも優先して先のような気がしていた。
島めぐりクルーズは楽しかった。椰子の木が一本だけってかわいらしい島もあったし、砂浜だけが海面から頭を出しているただの浅瀬の延長みたいなところもあった。船長の説明だとニッポンのタレントが水着の撮影によくここを使うそうだ。いくつかのポイントでまた潜ったが、デビッドたちは本格的なダイビングの肩ならしみたいなつもりらしかった。それでも有紀はずいぶん海に引き付けられたみたいで、オンリージャパニーズをあっさり捨ててスーザンにいろいろスキューバついて聞いていた。そう、この日の体験が有紀にとって、この後の彼女の道を示す大きなものになっていったのだ。
恋愛のたどりついた秘密のバカンスは、最初こそ若さと勢いで本能のままに暴走しかけたが、ずっと一緒にいる密度の濃い時間はお互いの薄っぺらさをわからせるのに充分で、さらにそれぞれの意識を哲学的な疑問にまで押しあげていってしまった。少なくとも僕はそうだった。現実の生活から離れていればいるほど、忙しさや目の前の雑事に惑わされることなく「己」の存在理由を深く考えずにはいられなかった。自分がこの世に生まれてきた証とは何なのか。なにか熱くなれる本当のことを探さなくてはいけない。自分は未来にはどうなっていたいのか。答を出せない焦りは僕に非情な使命感を植え付けていくことになる。二人で考えればよかったんだ。でも、その時僕はそれは自分だけの問題だと、有紀を巻き込むようなことじゃないんだ、と思い込んでいた。今思えば、未来とは10年後のような遠い将来のように勝手に思っていたが、実は次の日も次の週も次の月も未来であり、その違いはほとんどなかったんだ。
島を去る日の朝、僕達は浜辺にいるデビッドたちに別れを告げにいった。二人は仲良く並んで木陰の白いデッキチェアにねそべっている。スーザンは水着の上をはずしてうつぶせになって本当に寝ているようだ。もう帰っちゃうのかい。読んでいた本を置いて立ち上がったデビッドの声にスーザンが目を覚ました。はずした小さな布きれで胸を押さえて起き上がろうとする彼女に、有紀が椅子の足元にあったタオルを差し出しながらちょっと涙ぐんでいる。二人はしっかり抱き合って背中をたたきあった。スーザンは有紀より2、3歳上らしかったがずいぶん大人に見えた。お互いに住所を教えあい来年の再会を約束をする。言葉が違うということ以外、僕達はこの二人に人間的な違いをあまり感じなかったが、自信に満ちあふれた顔で人生を楽しむ余裕はいったいどこからくるのか不思議だった。
この旅が僕達それぞれの始まりになったのだが、不幸なことにそのレールはどこまでいっても平行で、交わる運命にはなかった。デビッドたちとの約束もついに果たされることがないまま十年が過ぎていった。今でも彼等はあの浜辺を訪れているのだろうか…
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ちょうど十年前。
「ヘイ! ユー」
目つきの悪い空港警備員に呼び止められたのは、国内線に乗り換えるためにタクシー乗り場を探そうと空港ロビーのインフォメーションをめざして歩いている時だった。当時セブ島への直行便は日本からは出ておらず、ニノイ・アキノ国際空港を一度出て、隣接している国内線専用の別の飛行場でフィリピンエアラインに乗り換えなければならなかった。旅行会社に頼らず自分たちでアレンジしたこのバカンスは、当然ながらガイドもいなかったから、二人ともかなり緊張していて簡単にこれにひっかかってしまったのだ。
パスポートを見せろ、という。よく考えれば入国手続きは済んでいるし、警備員にパスポートを見せる理由も必要もないのだが、大柄な褐色の肌で、警官のような制服に威圧されたものだから、そんな理屈まで頭がまわらない。盗難されないようにとウエストポーチの二重のポケットに厳重にしまい込んだパスポートはなかなかひっぱりだせなかった。有紀はもっと動転していて何をしていいかもわからない様子。警備員は日本人カップルの旅慣れない風体を見て、旅券に難くせをつけてお金を巻き上げようと思ったところまではよかったが、二人の小心者の計算外のパニックは集金を予想以上に手間取らせてしまい、その様子がロビーに入って来れない人達が鈴なりになっているガラスの壁からのさらしものになっていた。ガラスごしに聞こえてくるこもった罵声とも嬌声ともつかない騒ぎは、連中が彼の小さな悪行をはやし立てていたのかもしれない。ついにイライラが募った警備員は、
「マネー、マネー」
とだけ押し殺した声で凄んできた。
入国手続きに不備でもあって面倒なことになるんじゃないかと不安だった僕は、なんだそうか、ゆすられているんだ、とわかると逆にほっとした。ポーチの小銭のポケットを探り500円硬貨を三枚渡すと、虚勢を張っていた警備員の表情が急に卑屈なものに変わっていく。副業を終えてさっさと消えてしまった巨漢に呆れて、到着早々これじゃ先が思いやられるなぁ、って苦笑いしていると有紀は今頃になってプリプリ怒り出す。
「くやしぃー。ただのゆすりじゃないの。警備員が堂々とあんなことやっていいの? まったくもぉ信じられない!」
「僕に怒るなよ。千五百円で済んだんだからいいじゃない」
空港ビルを一歩出るとねっとりと肌にまとわりつく亜熱帯の空気が僕らを包んだ。インフォメーションで確かめたタクシー乗り場は、フリーの客を捕まえようとするうさんくさいガイドや、とにかく何かをわめき散らしている目つきの鋭い連中ばっかりで、ついさっき脅かされた僕らはその中をかき分けてタクシーにたどりつくのもかなりの勇気を必要としたが、ここで引き下がってはいかんと、つないだ手をさらにぎゅっと握りあって、比較的新しそうな銀色のファミリアに乗り込んだ。若い運転手は日本語が少し話せてこの車を大いに自慢する。特にこのケンウッドのカーステレオは高かったそうで、イコライザーのグリーンの液晶バーがダイアナロスの高音に合わせてチラチラと上下していた。3曲目が終わらないうちについてしまった空港ビルは、いかにも国内線専用といった感じで、そのまま待っていると乗り合いバスでも入って来そうな感じがした。待合い室といった方がよさそうな出発ロビーはエアコンもきいておらず、コンクリートの滑走路に面した窓は全開にされていて、天井にとりつけられたGE製の扇風機がうなりを上げている。が、ねっとりと淀んだ空気をかきまわすだけで涼しさとは程遠い。明らかに観光客だとわかるヨーロッパ人達のグループがいくつかいたが、他はほとんど地元の人らしく、サンダル履きや短パン姿はあたりまえ。彼等の持っている荷物は、使い古しの段ボール箱にガムテープをグルグル巻きにしただけというのもあった。そう、「荷物」なんだからそれで充分なんだけど、そんな訳で立派なブルーとレッドの色違いのスーツケースをガラガラ引きずっている僕らはかなり注目を集めてしまった。成田を出る時にはあまりにも軽装で普段着すぎたかなとちょっと後悔した格好、チノパンにポロシャツ姿も、ここではパリッと見えて少し気恥ずかしかった。そんないきなりのローカル色に驚きながら、一歩機内に入ればスペインの血が混じっているのだろうと思わせるとびきりの美人スチュワーデスが3人も笑顔をふりまいており、そのアンバランスな取り合わせが、不安だらけの二人の旅を面白おかしくしてくれていた。
セブ本島の南側に浮かぶ小さな島、マクタン島の空港に降り立った時には、すでに陽は落ちかけていて周りの風景はよくわからない。でもオレンジ色の夕焼けに映えた椰子の木のシルエットがそこらじゅうにあって、リゾート気分を大いに盛り上げてくれる。到着ロビーの外にむらがっている人達は、夕闇に溶け込みそうな色の顔ばかりで、ここもまたさっきと同じかと気後れしそうだったが、よく見れば声高に叫ぶ人もなく、首都マニラから戻った身内を迎えに来た、そんな人が多かった。地図で見ればここから海辺のホテルまで1キロもないのだか、この時間ここから歩いて行くわけにもいかなかった。コーラル・リーフホテルと告げられたサニーのタクシーは無愛想にうなづくと、道路にあいた穴ぼこを曲芸のようによけながらフッとばす。ホテルの入口には守衛が3人、よく見れば肩から下げていたのはショットガンで、そのゲートを過ぎて敷地の中央にあるフロントコテージでチェックインを済ませると、童顔のボーイが荷物を一つ手伝ってくれて僕達の予約した部屋へ案内してくれた。ここは広い敷地の中に白壁の細長いコテージがいくつか点在しており、部屋数は全部で50しかないそうだ。通された部屋は巨大で全てがヨーロッパサイズ。分厚い巨大な木製のドアから始まって、ペイズリー柄のカバーがついているキングサイズのベッド、家族でも入れるんじゃないかと思える、でもちょっと浅い巨大なバスタブ、うなりをたてる床置きのエアコン。こんなにでかいクーラーの機械は見たことがないなぁ。白いテーブルと椅子が置いてあるベランダだけでも6畳ぐらいはありそうだ。この部屋はこぎれいに小さくまとまっている日本とは違い、豪華な調度品こそなかったが、欧米人の大味なスケール感がドーンとある感じで、それを突き付けられて二人とも少々びっくり気味。蝶タイがお似合いのボーイ君が、入口でモジモジしている事に気が付いて、チップを渡し慣れていない僕達は、彼に渡す小銭のペソが見当たらず、またまた焦って荷物をひっかきまわす。結局、えぃ面倒だ、ってまた500円玉を渡してしまい、ちょっと多すぎじゃないの、勘違いされちゃうわよ、と有紀に文句を言われる。腹ぺこで夕食を取りたかったけど、マニラからここまでは日本人は僕達だけだったから、とにかく気を張ってここまでたどり着いて… とにかくクタクタで、ここでゆっくりしよとルームサービスを彼に頼もうとしたら、そんなこと言わずにレストランにおいでよボクが案内するからさぁ、という様なことを言われた。
プールサイドにあるメインのレストランは2、3組の客がいるだけでガラガラだった。ほんの少し日本語ができる童顔のボーイ君は、エディって呼んでくれとウインクをしながらウェルカムドリンクだと、フルーツが山のようにささったよくわからないトロピカルカクテルを持って来てくれた。
「とうとう来ちゃったね。よくたどり着いたなぁ」
「なんで今頃突然有給なんだって、課長が文句言ってるのが目に浮かぶわ」
「11月にまとめて休むやつは会社の敵だろうな。…さぁもう日本の事は忘れよう」
「うん。よーし、一週間は島の人よ」
プールはブルーのライトでライティングされ、大きなトーチが所々で燃えている。頼んだシーフードピラフはエディが運んで来てくれた。彼はさっきのチップのおかげで僕達の専属になってしまったようだ。しばらくすると4人組のギターを持った男たち、みんなお揃いの白いシャツで襟先が広く大きい涼しそうなステージ衣裳できめているおじさん達が、僕らの右奥に座っていた50代ぐらいの金髪の夫婦のテーブルの横で歌い出した。二人はテーブルのまん中に灯された大きな黄色いキャンドルをお互いに微笑んで見つめながらワインを飲んでいる。
僕達もあんなふうになれるのだろうか… あの時は有紀も同じことを考えていたかもしれないな。
4人組はアンディ・ウィリアムスとトム・ジョーンズを何曲か歌い終わると僕達のテーブルへ来た。エディがなんかリクエストしなよ、と目で合図してくる。ひげをはやしお腹がぽんと出たゴンザレス顔のおじさんがジャーンってギターをかき鳴らした。とっさに何にしようか浮かばず困っていると
「キラークイーン。三枚目のアルバムに入ってたやつ。クイーン、知ってる?」
って堂々と日本語で有紀が聞いた。
おいおい、ゴンザレスだよ。そんなものできるわけないだろう。まったくの日本語で言われたこともあるが、案の定4人はみんなで顔を見合わせてヒソヒソ、お前知ってるか?ってやってたけど誰も理解すらできないみたい。
「じゃビートルズできる?」
「オーケーオーケー。ノープロブレム」
ひょろっと背の高いロドリゲス顔が陽気に答える。
「うーん、じゃね、ロングアンドワインディングロード」
有紀は英語を話す気は全くないらしい。下北かどっかの居酒屋で、流しのおじさんに津軽海峡冬景色かなんかをリクエストしてるようなつもりなのだ。ゴンザレスカルテットはなかなかうまかった。彼女がこの歌を選んだのは何か意味があったのかなぁ。初めはそんな事を思っていたけど、生ギターのポロポロがやけに感傷的に聞こえ、ウェルカムドリンクの酔いも手伝って気持ちがふにゃふにゃにほぐれていく。まぁそんなことはどうだっていいや…
「ねぇ明日何する? いろんなことしようね。もったいなくて寝るのもおしいなぁ。そう思わない?」
「あせんなよ。ゆっくりしようよ」
「ゆっくりなんか日本でもできるじゃない。せっかく来たんだからいっぱい見ようよ。私、市場なんかも行ってみたいな。屋台でさ、なんか美味しいもん売ってそうじゃない。あんなの好きなんだぁ。アジアって感じでいいわ。お醤油っぽいよね、なんとなく。そう、魚醤ってのもどんな味だか食べてみたいし」
「食べることばっかじゃん。太るよ」
「このホテルはさぁ、なんかヨーロッパって感じだけど、私ホントはアジアが好きなんだ。お部屋も椰子の葉の屋根とか竹のベットとかそんなんがいいな」
「贅沢言うなよ。ここは安全なんだってよ。結構危ないんだから、この辺は」
「そうかなぁ。鉄砲もってる人に守られてるなんてちょっと変だなぁ」
「なんだよ、さっき空港で怖い目にあったのに。もう忘れちゃったのか」
「観光客っぽかったからよ、私たちが。どこにでもいるわ、あんなの。ちょっと私たち気取りすぎてるのよ。ねぇ、いろんなとこ行こう。ねっ、ねっ」
「うん…。でもさぁここでのんびりしようよ。リゾートなんだからさぁ」
「1人でも行っちゃうわよ。なんかワクワクしてきたなぁ」
お互いにプライベートな時間が制約されて、無理矢理仕事に張り付けられていた環境で、自由に会えるチャンスはそう多くなく、その不満がこのバカンス決行のエネルギーとなったのだが、僕の若さはもちろん一点に集中していてホントは観光なんかどうでもよかった。
でも、有紀の好奇心と南国の太陽と海は、僕の下半身耽溺プランに水をさす。翌朝、有紀はベランダでの朝食の時から半分腰が浮いていて、二杯めのレモンティーを断わるとそこから直接芝生に飛び下りて真っ白な浜辺まで駆け出してしまっていた。夜に到着したので波の音だけは聞こえていたが、こんなに浜辺が近いとは思わなかった。でも、あの勢いは誰も止められなかったな。
「わぁーーい、わぁーーい」
ホテルのプライベートビーチは長さが800メートルほどもあり、小さな入江にはクルーザー用のマリーナまであった。目の前の水平線にはボホール海峡に浮かぶサンタ・ロサ島がかすかに見える。波打ち際から100メートルほど沖までは腰ぐらいの浅瀬で、たぶん白い砂と珊瑚のせいだろう涼し気なライトブルー、そこから先は太陽の光をきらきらはねかえす紺碧のブルーだった。その色の境目あたりに小形のクルーザーが一隻錨をおろしている。がっしりと太い木で組まれた白のビーチチェアが太い椰子の木の根元に所々置かれている以外はなにもない。ホテルも満室ではないのだろう、ここにいるのは僕達を入れても10人もいなかった。浅瀬ではしゃぎまわることは僕も有紀もあっという間に飽きて、自然にこの浜辺の過ごし方がわかり始めていた。
なにもしないこと。ここはそのために用意された場所なのだ。
今日はここで過ごそうと、ホテルの外へ出かけたがる有紀を無理矢理納得させたものの、やっぱり浜辺でただじっとしていることには飽きてしまい、夕方近くになってホテルの敷地を全部散歩してみようと、南の方、ゲートの近くまで行ってみる。敷地と外の境界には高さ4メーターぐらいのフェンスが張り巡らされ、ショットガンをぶら下げた警備員がドーベルマンに引っぱられながら巡回している。外の道路のはるか向こうには人の住居らしきバラック、ほったて小屋みたいのがなん軒か見えた。しばらくフェンスに沿って歩く。外の道路がまた高い金網に沿って伸びている場所に出た。道のはずれに1台のダンプカーが小さく見えていたが、その荷台になにか動くものがたくさんあった。逆光のせいもありよくわからず、確かめようと近づくと、それは粗末な服を着た小学生ぐらいの子供たちで、20人ほどが荷台にむらがって満載された拳ぐらいの瓦礫を道路にあいた穴ぼこに投げ込んでいた。それが彼等の労働なのだ。つかの間のリゾート気分でうきうきしていた僕達は、この国の現実を見せつけられ、ショットガンとフェンスで厳重に守られているその危うさにもショックを受けてしまい、しばらく無言で歩いた。
「凄いね… 私たち恵まれてるわ」
「…… しょうがないさ」
「ねぇテニスしよっか」
有紀がつぶやいた。さっきチラッと見かけたグリーンのコート。少し落ち込んだ気分をスッキリさせるには汗を流すのもいい。フロントでラケットを借りると、そのヨネックスの張りの甘いガットに文句をいいながらも、久しぶりのグリップの感触にわくわくしてくる。コートは全部で4面あって、どれもがまだピカピカ。大柄な40ぐらいのヨーロッパ人の男が、褐色の肌と白いウェアとのコントラストが印象的な青年、ホテル専属のコーチだろう、にボールを出してもらってバックハンドの練習をしている。大きな日よけのついたベンチには、ちょっと化粧のきつい小柄な、地元の人かな、若い女が足を組んでそれを見ていた。
ガット甘さとコートの硬さに慣れるまで、ふわふわとしたストロークが続いたが、10分もすると二人とも感覚を取り戻す。こうやって一つのボールを打ち合うのはずいぶんしてなかったな。日本からわざわざ何千キロも離れたこんなところで、改めて二人でやるテニスもなんだかおかしかった。
しばらくすると、試合をしないか、と大男に申し込まれた。聞けばスイスから来ているそうで、もう2週間もここに滞在しているという。コーチのマイケルはさっさと審判チェアに座ってしまっていてニコニコとこっちを見ている。男と並ぶと益々小柄に見える化粧のきつい期間限定バカンス妻はちょっと不機嫌な顔でコーチにタガログ語で文句を言っていたが、あきらめたようにドネーのラケットを肩にかついでコートに出て来た。でも、よろしくって手を差し出してきた時の笑顔はまるで別人で、大きく襟が開いているTシャツからこぼれそうな胸とむっちりした足は合わせ技一本!で、これにスイス人はまいってしまったのだろう。ゲームは僕達の圧勝。正確にはシングル対ダブルスの対戦と言った方がよく、寝室では男を虜にする魅力的な胸も、初心者の彼女にはプルンプルンと揺れてバランスを崩すだけの邪魔物みたいだった。僕はずいぶん楽しませてもらっちゃったけどね。
コテージの前庭には椰子の葉で屋根が葺いてあるオープンエアーのバーがある。レストランから見えたプールのちょうど横にあり、ひと泳ぎのあとに一杯ということもできそうだ。夕食のあとカクテルでも飲もうと二人でぶらぶら近づくとカウンターの中から僕達に声がかけられた。さっきのコーチ、マイケルだった。昼間はテニスコーチ、夜はバーテンとしてやっているという。日焼けしたちっちゃな顔に白いシャツがよく似合う。このホテルのスタッフになるには、かなり基準の高い審査があるのだろう。どのスタッフも惚れ惚れするいい男揃いで、僕は少し気後れしてしまう。
「君らはずいぶんテニスやってるみたいだね」
「さっきはちょっと試合にならなかったよ。ミスタースイス人には申し訳ないけどパートナーが悪すぎた」
「彼女は専門が違うんだよ。夜がホントの試合なのさ。へへへ」
貧相な英語力でも共通の話題があると十分会話になる。元テニス狂のカップルと南国の現役プレーヤーはすぐに意気投合してしまった。
「マイケルは誰が好きなの?」
「マッケンローかな。彼の動きは芸術的だよね…。僕は彼とやってみたい。近い将来にね」
彼の遠くを見る目がキラリと光ったような気がした。彼はまだ若い。20ぐらいだろう。言葉や人種は違ってもその熱い想いは伝わって来た。
ジントニックを二つ頼むと、マイケルは映画みたいにジンの瓶を空中でクルッと回転させて、リズムに乗りながら酒をグラスに注ぐ。反対側にいた白人の若いカップルがワォッって大袈裟に驚いてみせて拍手を贈ってきた。僕達は渡されたグラスをそのカップルに向けて乾杯ってやると、二人とも自分のグラスを持ち上げて陽気に応えてくれた。彼等はイギリス人で、ハネムーンかって聞いてみたら、ならいいけどね、ってほっそりしたきれいな金髪のスーザンが、意味ありげな表情で笑う。鼻の頭が日焼けでひと皮むけたもじゃもじゃ胸毛のデビッドは、チキン一羽丸ごとのローストを頼めないかカウンターの中のマイケルに食い下がっていた。最初は「そんなのレストランのメニューにはない」って断わっていたが、結局彼が電話であれこれレストランのシェフとやって、結局オーケーってことになった。彼等はもう1ケ月もここにいるそうだ。去年も来たといっている。メニューにない料理を作らせてしまうとこなんか、さすがにバカンス慣れしてる連中で、ホテルのスタッフとも友達みたいな関係になっていて実に羨ましい。
「ユキ、普段はどんなとこでテニスやってるんだい?」
「東京の高〜いコート借りるのよ。安いとこは朝早くから並ばなきゃ取れないの。私たちかわいそうでしょ。テっちゃん、これ通じてるかな?」
「全部日本語じゃわかんないよ。ほらね」
マイケルは両手を左右に広げてアイドントノーのポーズ。僕だってたいしてしゃべれるわけじゃないけど単語並べりゃなんとかなる。
「じゃここまでテニスしに来ればいいじゃないか。コートなんて一日中使えるよ、ボールボーイもつけるからさ」
今度はこっちが両手広げてアイドントノー。
「テツ、明日もやらないか? コーチするよ」
「いいけど」
「じゃ、5時でどうだい。フロント通さなくてもいいからさ。200ペソでいいよ。直接コートに来てよ、ラケットも用意しておくからさ」
マイケルはウィンクしながら流れている音楽に首のスイングを合わせている。どういう意味かわからずに有紀と顔を見合わせたが、彼女も両手広げてアイドントノー。まぁいいか、明日になってみればわかるだろう。
三日目はとうとう有紀にひっぱられる形でセブ市内に繰り出すことになった。でもさすがに地理もわからず言葉も通じないのは彼女も不安みたいで、一人でも行くという勇ましさはひっこんで、ホテルにガイドの手配をしてもらう。紺色の古いクラウンで僕たちの前に現われたのは、バンさんというコロコロに太ったおじさんで、日本語をかなり上手に話した。何が見たいですか、と尋ねられ、すかさず有紀が、
「ヌクマムが入ってるお料理食べられるとこがいい。バンさん、知ってる?」
「ニョクマムね。オーケー、珍しいリクエストですね。お昼に食べましょう」
「観光名所はあんまり興味がないわ。市場とか屋台とか、ここの人達が行くとこがいいなぁ。ねぇバンさん、ガイドとして案内してくれなくていいわよ。私たちのそばについててくれるだけでいいわよ。私自分で歩いてみたいの。いいでしょ」
「危ないとこもあるから、あんまりいいことないけどねぇ。気をつけないと…」
「ボディガードが二人もいるんだから大丈夫よ、ねっ、テっちゃん」
「お前はどこでも同じだなぁ。新宿歩くのとはわけが違うんだよ」
「平気平気。行こう行こう」
僕にしてみればただ猥雑なだけのマーケットや地元の商店街も、有紀にとっては見るものさわるものカルチャーショックの連続で、バンさんは質問の嵐に四苦八苦。僕はトボトボと後ろをついていくだけの金魚のなんとかみたいで、あまりおもしろくない。昼食もわざわざフツーの食堂に入って、僕はチャーハンみたいなものを頼んだが、クセのある油の匂いとパラパラのご飯は、暑さと歩いた疲れも手伝ってさっぱり進まなかった。有紀は念願のヌクマムで味付けされたスープみたいなのを、これが本物のエスニックだわ、と感激しながらすすり込んでいる。ちょっとぐらい食べなさいよ、って無理矢理スプーンを口にもってこられた僕は、あの饐えたような匂いがダメで、バンさんにゲラゲラ笑われた。
僕はいつも有紀をリードしているつもりだったのに、こんなことになると自分が臆病で小心者だったことがわかりちょっとショックだった。でも、今まで気が付かなかった有紀の逞しさ、こんな娘だったのか、という今さらながらの発見も嬉しかった。こんな有紀を見るのは初めてだったんだ。
夕方のマイケルとの約束もあったし、バンさんとの契約も半日ということだったので、どこまでも歩きたがる有紀をなだめて、ボコボコの道をクラウンに揺られながらホテルへもどった。途中、これが私のウチ、って建築中の二階建ての家をバンさんが指さす。日本語ができるガイドは稼ぎがいいんだそうで、おかげて家が建つよ、って喜んでた。
さすがに疲れていて、これからテニスってのもちょっと気が重かったが約束だからしょうがない。時間前にコート近くまでぶらぶら行ってみる。有紀はもうアキレス腱なんか伸ばしてる。切り替えが早いやつだ。この島では少しでも時間をムダにしたくないらしい。まったく貪欲だよ、キミは…。しばらくするとフェンスの横にあった用具小屋の陰からマイケルが音もなくスーと出てきた、と、パラパラと小さな子供も4、5人いっしょに飛び出してくる。よく見れば小学生になっていないかもしれない幼さだ。
「僕の弟たちなんだ。ボールボーイをやらせてよ」
マイケルに約束の200ペソを払い、ちっちゃな助っ人たちにも10ペソづつチップをはずんでも、フロントに払う300ペソよりは安かった。1ペソは約5円。だからたった千五百円ぐらいのことなんだけど…。
レッスンはそれぞれの課題、僕はバックハンド、有紀はサーブを見てもらうことにする。彼は優秀なコーチだった。有紀はわずか1時間足らずでスライスサーブにかなりキレが出てきた。言葉があまり通じないということは、逆に考えると日本語の曖昧なニュアンスやあやふやな表現で惑わされないということで、教えられる方も言葉で理解するよりも、コーチの動きをそのままコピーするようにやるしかないわけだから、かえって確実に体が覚えてくことになった。今僕が得意にしているバックハンドのトップスピンは、この時マイケルにしこまれたものだ。
翌日、プールサイドを通りがかったドイツ人家族に見とれて、有紀におもいっきり背中をたたかれて飛び上がったのをあのイギリス人カップル、デビッドとスーザンに見られて大笑いされた。だってあれはしょうがない。あんな美人の金髪見たことなかったし、あんなにくい込んで、カットが大胆で過激な水着は目がつぶれるかと思った。しかも二人も子供がいて、信じられない光景だったのだ。
「アハハハ。テツ、お前が悪いよ、あれは。口あけてたからな、アハハハ」
「あれを見るなっていうのは無理だよ」
「ハハハハ、俺もそう思うよ。ハハハハ」
「なぁ、これから俺たちと島めぐりしないか」
「デビッドと私はスキューバやるの。いっしょに来ない?」
「どうする、有紀?」
「行く行く! スーザン、私も潜りたぁい」
話はすぐにまとまりデビッドとスーザンは船の手配やボンベの準備にかかった。ビーチの左手にあるマリーナに左右にフロートが突き出た船が入ってくる。クルーは全部で4人。たぷたぷと太っているおじさんが船長であとは若いのが3人、一人はまだ12、3才の少年。今日も海はほとんど波がなく船はゆっくりと沖へ出る。めざすは真正面のサンタ・ロサ島。この周辺には小島が多くきれいな珊瑚礁が見られるそうだ。スピードを上げはじめた船の舳先から時折大きな飛沫が僕達にふりかかる。話し声は風とエンジン音でかき消されてしまい、顔にまとわりつく髪の毛を振払いながら、かっ飛んでいくボートの甲板にただただ必死でしがみついていた。20分ぐい走ったろうか、デビッドが右手を上げて船をとめる。このあたりがポイントの一つらしいが海上からでは太陽の反射でよくわからない。スキューバは初心者がいきなりは無茶だから私たちが潜ってるのをこれで見ててね、と箱メガネみたいなのをスーザンに渡された。有紀と僕は顔をおもいっきりひっつけあって一つの箱からまだ誰も潜っていない海中を覗く。それをデビッドにヒューヒューとはやし立てられ、おまえたちはお似合いのカップルだ、と大いに誉められた。海中はブルーのフィルターをかけられたような世界にウスピンクや白っぽい珊瑚が一面にあり、その上で黄色い魚がたくさんヒラヒラと群れてじゃれあっているように見えた。ホントはもっと深いところがいいんだけどキミたちのために浅いポイントを選んだんだぜ、とデビッドが水中メガネをかけながら言ってくる。
準備が整うと二人は仲良く水しぶきをあげて海中の人となった。でも、狭い視野の箱メガネでは英国人たちの海中散歩を追いきれない。すぐに見失う。
そう、やっぱりそうなると思った。有紀は私も潜ると言い出した。シュノーケルとフィンを借りるとあっという間。あいかわらず即断即決で、ドボンと飛び込んむと僕一人が船に取り残されてしまった。船長がお前もどうだとフィンを差し出すがノーサンキュー。僕は泳げない。背が立たない所は怖くて怖くて。でもここまで来て船上の人というのもちょっと悔しくて、浮き輪を貸してもらいフロートの横から海に入ってみる、が、どうにも様にならないのは万国共通で、若いクルーに指を差されて笑われた。うるせー、オレの勝手だろ。
船の周りで潜っていた有紀が、ひと休みと上がってきてフロートにちょこんと腰をおろし足を海中でぶらぶらさせている。赤い日焼けがトースト色になってきて細い手足がよけいスリムに見えた。
「ねぇテっちゃん、凄いよ。もの凄いよ。おいでったらぁ、潜ってみなさいよ」
「ここからでも見えるよ。わかってるって」
「意気地なし。海は体が沈まないのよ。ここで潜らないなんて信じられない」
「なんとでも言え」
「ほら海へび。きれいねぇ」
赤と黒の縞が入った細いロープのようなものが、うねうねくねりながら僕の足元を通り過ぎた。おもわず浮き輪からだらんと海中にぶら下げていた足をキュッと縮める。
「アハハハ、大丈夫よ。ホントに臆病ねぇ」
「だってあれ毒があるんだろ。しかしお前はたくましいよなぁ。たいしたもんだよ」
「私こんなとこで暮らしたいなぁ。日本なんかに帰りたくないなぁ」
「……」
デビッドとスーザンは20分ぐらいで戻ってきた。二人ともビューティフルを連発しながら、海中からのお土産、白い珊瑚のかけらや小さな薄ピンクのタケノコのような巻貝を披露してくれる。その中に大人の手のひらぐらいの真っ赤なヒトデがいた。白く塗られた甲板にのせられたその色は実に鮮やかだった。
「スターフィッシュ! こいつが白い珊瑚の上にいたんだ」
デビッドは興奮している。
「でも逃がしてやりましょ。お家へお帰り」
スーザンはそっとヒトデを海中に入れて離そうとした。
「待って待って。写真取らせて」
有紀は他のお土産には目もくれず、赤い星形を甲板に置いて何枚かカメラにおさめると、それを微笑みながら見ていたスーザンと二人で海に入れた。ヒラヒラと木の葉が舞い落ちるように赤いヒトデは青い底に落ちていく。この写真はその後ずっと有紀の定期入れに入れられ大切にされることになった。
ヒトデを追いかけるように一番若い少年、船長の息子かもしれなかった、が僕達の目の前からいきなり海へ飛び込んだ。あっけにとられて見ていると、しばらくして濃いこげ茶色をしたウニを二つ甲板に放りあげてきた。彼の兄貴らしいのが、とげを山刀でばりばりたたき折ると上の方を切り取って中身を見せてくれる。食べてみろ、と差し出し笑っている。ええっ、こんな熱帯のウニ、なんていう種類かもわからないのがホントに食べられるの? うそっー、気持ち悪いなぁ。と、もたついていると
「キャー美味しそう。うん、いけるいける、ウニウニ。新鮮よ」
まったく早い。おそるべし有紀。食べないなら私食べちゃうよ、って二つ目も指ですくい取ってあっという間にたいらげてしまった。お醤油があったらよかったのに、のつぶやきに僕は大きな拍手を送った。だから好きなんだよ、有紀ちゃん。白人二人は信じられないという顔をしている。あんなもの食べるなんて、っていうことだろうな。
船首に移動したデビッドは、次の散歩に備えてボンベの点検に余念がない。
「ねぇスーザン、彼と結婚しないの? 有紀も聞きたがってるよ」
「たぶんね。あんまり彼はこだわってないの、一緒にいられればいいじゃないってね。私たちこうやって価値観を共有してるから、そんなことどうだっていいのよ。…ホントはしたい気もするけどね、女としては」
「あなたたちはどうなのよ、まだ若いみたいだけど」
「うーん、わかんないなぁ。それより自分が何をやりたいかがわからないんだ、僕も有紀も…」
「言ってる意味がよくわからないわ。ごめんなさい」
大英帝国の、世界中に飛び出して植民地を作ってきた民族の末裔が、未だに精神的鎖国状態の東洋の島国の未熟者のつぶやきを理解できなかったとしても不思議ではなかった。決して言葉が通じなかったわけではなかったろう。デビッドの作業を見ている有紀もそう思っていたに違いない。これから僕はどうなっていくのか。自分はどこに着地するのか、それを決めることがなによりも優先して先のような気がしていた。
島めぐりクルーズは楽しかった。椰子の木が一本だけってかわいらしい島もあったし、砂浜だけが海面から頭を出しているただの浅瀬の延長みたいなところもあった。船長の説明だとニッポンのタレントが水着の撮影によくここを使うそうだ。いくつかのポイントでまた潜ったが、デビッドたちは本格的なダイビングの肩ならしみたいなつもりらしかった。それでも有紀はずいぶん海に引き付けられたみたいで、オンリージャパニーズをあっさり捨ててスーザンにいろいろスキューバついて聞いていた。そう、この日の体験が有紀にとって、この後の彼女の道を示す大きなものになっていったのだ。
恋愛のたどりついた秘密のバカンスは、最初こそ若さと勢いで本能のままに暴走しかけたが、ずっと一緒にいる密度の濃い時間はお互いの薄っぺらさをわからせるのに充分で、さらにそれぞれの意識を哲学的な疑問にまで押しあげていってしまった。少なくとも僕はそうだった。現実の生活から離れていればいるほど、忙しさや目の前の雑事に惑わされることなく「己」の存在理由を深く考えずにはいられなかった。自分がこの世に生まれてきた証とは何なのか。なにか熱くなれる本当のことを探さなくてはいけない。自分は未来にはどうなっていたいのか。答を出せない焦りは僕に非情な使命感を植え付けていくことになる。二人で考えればよかったんだ。でも、その時僕はそれは自分だけの問題だと、有紀を巻き込むようなことじゃないんだ、と思い込んでいた。今思えば、未来とは10年後のような遠い将来のように勝手に思っていたが、実は次の日も次の週も次の月も未来であり、その違いはほとんどなかったんだ。
島を去る日の朝、僕達は浜辺にいるデビッドたちに別れを告げにいった。二人は仲良く並んで木陰の白いデッキチェアにねそべっている。スーザンは水着の上をはずしてうつぶせになって本当に寝ているようだ。もう帰っちゃうのかい。読んでいた本を置いて立ち上がったデビッドの声にスーザンが目を覚ました。はずした小さな布きれで胸を押さえて起き上がろうとする彼女に、有紀が椅子の足元にあったタオルを差し出しながらちょっと涙ぐんでいる。二人はしっかり抱き合って背中をたたきあった。スーザンは有紀より2、3歳上らしかったがずいぶん大人に見えた。お互いに住所を教えあい来年の再会を約束をする。言葉が違うということ以外、僕達はこの二人に人間的な違いをあまり感じなかったが、自信に満ちあふれた顔で人生を楽しむ余裕はいったいどこからくるのか不思議だった。
この旅が僕達それぞれの始まりになったのだが、不幸なことにそのレールはどこまでいっても平行で、交わる運命にはなかった。デビッドたちとの約束もついに果たされることがないまま十年が過ぎていった。今でも彼等はあの浜辺を訪れているのだろうか…
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