2008年11月15日

スターフィッシュ[3]

 ホテルの西側に出てみんなと待ち合わせているロビーへ向おうとした時、携帯が震えた。まったくうるさいヤツだ、切っておこう。
「……」
「もしもし?」
「…社長。わたしです、佐野です」
「えっ、佐野君? どうしたの? 早退したって聞いたけど」
「あぁ情報早いなぁ。奥さんですね」
「ベニックスの色校どうなったの? ウチのじゃわかんないよ、あれ」
「もぉー、私より仕事の心配ですかぁ? 大丈夫ですよ、朝のうち佐々木さん持ってきてくれたから。チェックして戻しときましたよ。問題なしです」
「そう、ありがとう。まぁ、ならいいけどねぇ…」
「ねぇ、社長。私今どこにいると思います?」
「どこって、それより大丈夫なの? 早退だなんてびっくりさせんなよ」
「やだぁ、今頃心配してくれても遅いです。ねぇ、左見てぇ」
「あぁ?」
「左の案内版のとこ」
20メートルぐらい向こう、さっき通り過ぎてきた植え込みに、キラキラ輝いている金属の案内板があった。その横にサングラスをかけ左手を耳に当てた、チャコールグレーのダウンにジーンズ姿の女が立っている。僕がそっちを向いたと同時に、彼女は右手の指を顔の横で動かせてみせた。まいったなぁ。
「なんでここにいるんだよ」
「怒んないでくださいよぉ。来たかったのぉ」
小走りに案内板まで駆け寄った僕は押し殺した声でついつい詰問調になる。
「社長の机のとこに貼ってあったでしょ、ハガキ。チェックしといたの」
「理由だよ、理由。なにしに来たんだよ」
「だってさぁ、社長ヘンだったもん。ハガキじっと見ちゃってさぁ、ため息なんかついちゃって。私ピンときたんだ。恋人だった人でしょ? 奥さんも知らない人でしょ? でも私には知る権利あるんじゃないかなぁ」
「何言ってんだよ。僕はこれから友達と会って、パーティ出てさっさと帰るだけだよ。忙しいの知ってるだろ。昔の仲間なんだよ」
「今日ね、お部屋とったの。スウィートはダメだったけど18階のツイン。ねぇ、経費で落ちない?」
「バカ、何言ってんの。終電で帰るんだってば」
「私、車だもん」
「車って誰の?」
「社長のよ」
「だって車検は?」
「今朝できたって電話あってね、お届けしますっていうから、私が取りに行くからいいって。もってきてあげたのよ、ここまで」
おいおいオイオイ。オレの車だぞ。オレの時間だぞ。オレのプライベートだぞ…
「もうみんな来るんだ。一緒にはいられないよ」
「うん、わかってる。終わるまで待ってる。電話して、ねっ、待ってるから。一人にしないでよぉ」
「わかったわかった、こんなとこでメソメソすんなよ。しょうがねぇなぁ。とにかく終わったら電話するよ」
 佐野ミドリを1年前にデザインスタジオから引き抜く形で採用した理由は、キャリアと能力、まぁ容姿もあったが、なにより目を惹かれたのは思いきりのいいフォアハンドだった。ほっそり華奢に見えたがスタイルはなかなかで、でもそれで目立っていたわけではない。ただそれがコートに立つと初心者ながら彼女は別人のようになった。筋肉の使い方を本能的に知っているのだろうか、ボディバランス、ラケットさばき、脚力と、どれをとっても先天的なセンスと言えるのような上手さがあった。明るくさばさばしているスポーツ向きの性格も手伝って彼女はあっという間にクラスを2つ上げ、僕のいる中上級のクラスに入ってきた。ネットを越えるとストンと落ちる強いスピンのかかったフォアハンドは結構手こずるいやなボールで、それを打ち出すコンパクトな振り抜きの、フォロースルーを左手で受ける流れるようなフォームは実際の彼女の性格とは違う別人格の大人の印象があり、それが僕をことのほか刺激した。その娘がたまたま同じ業界だったというのは信じられない偶然で、当時突然辞められてしまったスタッフの補充を迫られていた僕としては渡りに舟。今の仕事がツマラナイというグチをうわのそらで聞きながら、即採用ということになったのだ。アシスタントデザイナー兼秘書のような仕事をまかせていた。もうじき26だったかな。小さい会社。そんな彼女が、当時くさくさしていた僕と仕事以上の関係になるのに時間はかからなかった。
 父親が興した小さな広告制作会社を引き継いで5年になる。20代を銀座の中堅広告代理店の営業として息つく暇もなく過ごした僕が、父の体の不調から呼び戻されて任された会社は、小さいながら堅実な経営で業績をあげていた。もっとも実情は1年後に復帰した父の今まで通りの泥臭い営業がほとんどを支えているからで、ある意味今は傀儡として若さだけを買われているということだった。本当の自分の能力を推し量りかねている苛々と、それをわかってしまうことの不安。何かが満たされない本質的な渇きへの焦燥は、僕が今ひき起こしているこの状況ともまったく無縁とはいえないだろう。
「6時からだから8時半ぐらいには引き上げるつもりだけど…。終わるまでどうすんだよ?」
「有明コロシアム見てくるわ。私、去年連れてってもらったジャパンオープンのとこ。あれ忘れられないの。また行ってみたいんだ」
「今日はなんにもないから誰もいないよ、多分。入れないだろうし」
「いいのよ。あの雰囲気覚えてるでしょ? あそこは私にとってはなんか特別な所なのよ。一度あのコートでやってみたいなぁ…。とにかくあそこ見たいんだぁ」
「あぁ、あの時は興奮したなぁ。ここでやってみたいって言ったな。夢だけどさ…」
「私もっと上手くなりたいの。でももうそんな若くないし、だからあそこ行って元気もらってくるの」
「おまえのとりえはそのコートの負けん気だからな」
「……。他も見てみたいし…。だから今日は私のために…、ね。待ってて」
「……」

 突然押しかけられて面くらった。喉元に突き付けられたように切り出された今夜のことも、話の流れがすり変わったことをいいことに返事をせずにうやむやになったまま。自分自身もごまかしていたかった。どうにでもなれ、って少し思ってたのかもしれないな。

 とにかく有明に行くという、さっきとはコロッと変わってはしゃいでいる彼女をすぐそこの竹芝の駅まで送ることにした。普段は人目もありなかなか腕を組んでなど歩けないが、彼女はその反動なのか恥ずかしくなるぐらいベタベタとひっついてきて、でもこのあたりではそこらじゅうでイチャイチャが繰り広げられていて、まぁその中にまぎれた浮かれたカップルと開き直ってしまえば気にもならなかった。港と潮風とレインボーブリッジのせいにしてしまえばなんでもアリだな。なんて都合がいいんだろう。
 ゴムのタイヤで軌道を走るゆりかもめは、電車のような金属的な騒音がなく、電気自動車のようななめらかさでプラットホームに入って来る。この時間この駅で降りる客はほとんどいない。
 ミドリは2両目の満員の人垣に紛れて見えなくなった。一番後ろの車両がホームの端から出ていったのを見届けて改札へ引き返す。さっき歩いた道をまたホテルへと向い始めた時、30メートルぐらい前を見覚えのある後ろ姿がゆっくり歩いていた。
「岡村?」
彼は昔から湘南ボーイで通した名古屋人。今日も正ちゃん帽に紺のスイングトップ、ダークグリーンの綿のコットンパンツの足元は茶色のリーガルローファー。あの頃と何一つ変わってない。「オッサン」って呼ばれていた風貌は、実年令が追い付いてきてむしろ若々しい。豪華であろうウェディングパーティーに招待されているのに、相変わらずのスタイルで現われたのも岡村らしかった。ゴーイングマイウェイ万歳だ。
「やぁ、村田かぁ。これに乗ってたの?」
「ん、ああ。久しぶりだね。元気そうじゃない」
「おお、でもお楽しみは今日だけ。やんなっちゃうよ、月曜から研修でね。このままここにいなくちゃいけないんだ。往復してると大変だからさぁ」
「えっ、ここって、そこのホテルに?」
「いや東京に、ってこと。カミさんの実家が阿佐ヶ谷だからそこ行くんだ。今夜は」
彼は大手食品メーカーの営業マンで今長野にいる。こないだ子供が生まれたばかりと聞いている。ホントは早く帰りたいんだろうな、今ぐらいの時は。
「今度全員ノートパソコンを持たされるんだよ。その研修。やだよ、あれ。どうもキーボードがなぁ。ランだかロンだかよくわかんねーし」
「慣れればたいしたことないと思うよ。…でも俺たちの世代が境界線みたいだなぁ、パソコンの」
「そう、課長なんてワープロだってやらないぜ。ったく、俺だってそーしたいよ…。ところで今日は何人来るんだ?」
「全員だよ。中嶋以外の全員。あいつを入れたらホントに全員、12人なんだ」
「お前も複雑なんじゃねーの? よく来たなぁ」
「そう言うなよ、10年以上も経ってるんだ。いい思い出だ。あんまりつつくなよ。中嶋の方がかわいそうだよ」
「そうだな。まぁなつかしい面子だ。楽しくやろうぜ。お仕事忘れてさ」
 時間厳守の僕と岡村は、みんなを待ちながらの話に熱が入ってついつい大声になったが、気がつくとなつかしい顔がポツポツロビーに集まってきていた。みんないい顔になったな。真っ黒に日焼けしてジャージや短パン姿で走り回っていた印象があまりにも強く、堂々としたスーツ姿やドレスの仲間たちに囲まれるとちょっと感激してしまう。そんな歳なんだし、あたりまえなんだけど。
「ガンテツ、なつかしー。太ったわね。しっかりしなさいよ、今日は」
「んー、やっぱりそう呼ばれるか、チーコには」
皆なごみ出すと昔呼び合っていたニックネームがポンポン飛び出して、ドレスアップした一見大人の集団の、外見とは不釣り合いな会話は止まらない。
 ちょうど約束の1時半。僕と岡村が最初に陣取っていたブライダル相談コーナーのソファの周りは、随分な人数になっていて、さっきから一番嬉しそうにはしゃいでいるチーコが点呼を始めた。
「2人いないわ。カッパとトモね。トモはおっちょこちょいだからなぁ」
やっぱりアイツか…。二日前から3回も電話をしてきた山口がまだ来ていない。とても几帳面な男で昔から『確認の山口』と呼ばれていたのだが、几帳面なのは確認することだけで、ちょっとヌケることがある。
「前薗、下じゃねーか。1階にいるような気がするな」
「僕には3回電話があったけど、2階のロビーだって何度も確認したけどなぁ」
「それが危ない。カクニンしてきたんだろ? それで安心するヤツだからなぁ。中身は忘れてるぜ」
「私見てくるわ」
 やっぱりそうだった。下に見に行ったチーコと並んで、確認君山口とトモが笑いながらエスカレーターで上がってきた。
「山口君と駅で会ってね、こっちだっていうから変だと思ったけどずっといたのよ、下に。もぉ」
「あせったよ、ホテルがわかんなくて」
「えぇ! 俺ちゃんと言ったろ。芝浦のインターコンチネンタルだって」
「コンチネンタル? なんだよ、俺インターポンチって前薗から聞いたから、新橋で聞いたんだけど知らないって言われて。ここで降りたらトモがいてさ」
「インターポンチ!?」
「アハハハ、ハハハハハ」
このヌケ具合でも彼は課長。外資系を3つ渡り歩いて今は世界的証券会社の広報にいる。どうなってるのかな、外資は。声がでかいしシンプルなヤツだからなぁ…。わかりやすいんだろうな。
 披露宴出席組の女性たちはもう会場に向わなくてはならず、盛り上がりもそこそこに、パーティーでね、と手を上げながらエスカレーターで会場へ上がっていく。男たちは取り残されると少し気が抜けてしまい、場所でも変えて連中を待とうよ、ということで迷うことなく一番近い中華レストランへなだれこんだ。中途半端な時間だったが誰かが定食を頼むと俺も俺もとなって、ビール瓶が林立した遅い昼食は、アルコールと久々の気のおけない仲間の再会ということで、なごやかを通り越し早くも宴会状態。何でもない話をなつかしがり、忘れかけていた失敗談がまたスポットライトを浴びて大笑いされる。何年か前に集まった時も同じ話で笑ったけど、それを指摘するヤツは誰もいない。昔の話の繰り返しで新しいことはなにもない。でもそれが楽しかった。今、本当は嘆きたい状況にあるヤツも多分いるだろう。だけどそんなことはどうでもいいと思ってしまう何かがあった。そこは「嘆き」をはねかえす力を充電してくれているような時間だった。
 あの当時、そこでは小さな恋がいくつも芽生えては消え、それが原因で離れていった仲間もいた。とにかくボールをどうやって相手コートにたたき込むか。勝負の面白さと緊張感に魅了されてしまった僕達は、男と女の前にプレーヤーとしての互いの評価が先にきて色恋に結び付ける器用さがあんまりなかった。気がついたらお互い一番近くにいた。僕と有紀はそんな形から始まった。彼女の存在は11人の仲間なしでは考えられないものであり、それが二人の関係を深く潜行させる原因にもなったのだ。その後別れがあったこともみんなよく知っている。そのことで仲間との関係を変えることはあってはならないと、僕も有紀もよくわかっていた。それはたまたま僕たち二人に起きただけの事であり、他の誰がそうなっても同じことを考えただろう。今この席で、どんなに飲んで酔おうとも二人の過去や現在を揶揄するヤツはいなかった。それは不自然に黙殺しているのではなく、終わったことだとあっさり話題にならないだけ。そんな扱いだった。
 嬉しかった。

 結局本番のパーティー前にこの臨時の宴会で大いに盛り上がってしまい、その流れで次の会に参加するみたいなことになって、かなり陽気になった僕達は倉庫を改造したというクラブへタクシーを乗りつけた。すぐそこは港の岸壁。壁にブルーのネオンで店の名前があるだけで、外観は何も手を加えられていない地味な建物だ。ただ入口だけは付け足した大きなサンルームのようで、黒い鉄骨にガラスがはめこまれていて、植物園を思わせるたくさんの観葉植物がテラコッタの大きな鉢に植えられ置かれている。結婚した二人の人柄なのか、パーティーはかなりの人数を集めている。気鋭の建築家が設計したのだろう。倉庫という広大なスペースの中に、ロフトへのゆるやかな長い階段を中心にモダンな空間が演出されている。クラシカルなバーカウンターと木製のフロアが、元倉庫の殺風景さを救っている。全体を見渡せないうす暗さも幻想的なイメージをかき立てる。会場の中で会おうよ、と打ち合わせた女性陣たちとはまだ会えず、あんなに騒がしかった勢いはどこへやら、さっきのくだけた中華料理とは別世界の、今風のアングリな空間に囲まれた僕達はこじんまりとまとまってしまい、5才年下だというの新郎世代の紳士淑女たちにも若さと数で圧倒され気味だった。
「こっちよ、こっち。カッパ、カッパ!」
胸にシルバーのブローチが光っている黒いワンピースが手を振って駆け寄ってきた。
「オイ、それやめろよチーコ。大きな声で言うなよ」
「あぁゴメン。でも私たちにとっては山口クンよりカッパだなぁ。いいじゃん、カッパ。ねぇこっちにみんないるわよ」
「あれぇ、着替えたのか? さっきと違うよなぁ」
「あたりまえじゃない。こっちは色っぽくいくのよ。いいでしょ。ふふっ、私今日はお泊まりだからお色直しができる・の・よっ」
「おいおい、せっかくセクシー路線でいってんだから、お前しゃべんないほうがいいよ。そのかっこでカッパじゃ若いおにーちゃん驚いちゃうぜ」
「若いのねらいはオリーブよ。あの娘独身になったんだから次真剣に考えてんのよぉ。いいなぁ」
「その部屋俺行ってもいいのか? ジャージのチーコしか記憶にねーからなぁ、なんか新鮮だなぁ」
「佐藤君、奥さん恐くないならおいでぇ。トモもいっしょだよ。ヒャッヒャッヒャーだ」
「ふん、お前らのあんよニョッキリは昔散々拝見したからな。ジョークだよ」
「主婦の色気を甘くみないでよぉ。磨いてんだからねぇ」
「おう、昔のお嬢様方もみんなそろったじゃん、大集合だ」
「おい、オリーブ。今日は本気でいけよ。ユキみたいに若いのつかまえろよ。まだお前ならごまかせるぞ」
「失礼ねぇ。私はもう新しい恋してるのよ。でも今日はエキスだけいただいていくわ、ねぇケーコ」
「おーおー、女もベテランになると怖いねー」
「そういうあんたたちも相当オヤジ入ってるわよ。これじゃ今日はもてないわよ」
「ケーコさん、僕達はお祝にきたんデス。ナンパ考えてんのは前薗だけ」
「ハハハハハ。当たってるよ」

 華やかな女性たちの味方がついてほっと安心した35才の集団は、ようやくいつもの自分たちのペースを取り戻した。パーティーといっても無理矢理盛り上がるようなゲームやセレモニーはなく、よく見れば年輩の人達も結構参加しており、それは大きな大きな家族の集まりのような大人たちの祝宴だった。
 正直、僕は自分が心配だった。こんな場面でどういうふうに自分がなるのか想像がつかなかった。とにかく行かなきゃいけないという気持ちだけが強くあった。めそめそしているわけでもなかったし、決まりがつかなかったということでもない。ただ、有紀に会うとどういう感情が自分の中に生まれるのか。その予測ができなくてとまどっていたんだ。
 嬌声にハッとすると、柔らかいスポットを引き連れた新郎新婦がトモやオリーブたちに囲まれていた。シンプルな白のウェディングドレスに包まれた有紀はいっそうほっそりして見える。少し目もとの小皺が増えたかな。でもあの笑顔だった。トモは彼女の左手をぎゅっと握り小さくピョンピョン跳ねそうだ。みんながホントに嬉しそうだ。僕達男も6人でぐるりと有紀を囲んだ。
「みんなありがとう」
一瞬取り残された新郎をケーコが輪の中心へ押し出してきた。有紀に紹介された彼はかなり背が高く、みんなが見上げるような格好になった。学生時代は体育会のアメフトだったというのもうなずける。大手の光化学機器メーカーの本社に勤務する彼は、このあと新妻をともなって中米のコスタリカへ赴任するそうだ。そのために式が予定より早くなったらしい。みんなと交わす挨拶もソツがない。
「よかったな。おめでとう」
「今日はありがとう…」
有紀の右横にいた僕はこれだけの会話を交わすのが精一杯。あとはみんなの笑顔や話の中に自分を置いていた。誰かの肩ごしに一度目が合って、彼女の瞳がちょっと何かを言いたかったような、気のせいだったかもしれないが、でもこの場でこれ以上のことはできなかった。僕は一生懸命だった。仲間としての祝福を精一杯することだけを考えていた。でも心のどこかにあったぎこちなさと遠慮。はずまない有紀との会話に僕は少し慌てる。こんなことなのか。
 2ヶ月前、パーティーの往復はがきが届いた2日後。水色の封筒に入れられた2枚の便箋には、淡々と婚約の報告が綴られていた。事実だけを簡潔に並べた内容は、わざわざの手紙の意味がないように思われ、逆にそれをしたためた有紀の心情が見える気がして僕は少し複雑だった。そして最後の一行、
『樫村には村田君のことも話してあります。』
何をどこまでどう話したのか。有紀にとって僕は何であったのか。この一行が忘れていた過去を引き戻し、年月が風化させていった二人の関係を記憶から呼び覚ました。あの島から芽生えたそれぞれの新しい価値観は、結果的に二人引き離すことになった。一番近くにいた。それが決定的に二人の距離を遠ざけた。若さと野望はいとも簡単に「わかっているはず」を見えなくしてしまう。二人が求めたのは恋愛以上のものだった。生きる証、人生の意味にまで議論が及んでしまったことは、幼く弱かった二人の無垢な感情にはひとたまりもなかった。青く崇高な目的の前には、恋愛の完結がいかにも幼稚で世俗的なことであり、取るに足らないことに思えた。少なくとも僕は強くそう思い込んでいた。本当は「好き」や「憧れ」に忠実でありさえすればよかったんだ。だがその単純さを認められる大きさが僕にはなかった。あの時はどうしてもそれに目をつぶれなかったんだ。そして5年前の僕の突然の結婚。それが彼女にどう受け入れられたのか。有紀はどんな答を出したのだろう。
 しかも今、あの時ふりかざした理想や情熱がなくなってしまったわけではないが、「日常」に流されて、それを求めて輝いているとはとても言えない。それどころか、皮肉にも熱い時代を青かったと自嘲する冷めた目を成長させてしまっている…


 二人の挨拶廻りが一通り済むと、それぞれのグループで固まっていた招待客たちも、会場の中にゆるやかに散らばり始め、時間と料理とアルコールをゆっくり味わい楽しみ出した。ケニー・Gのサックスがカクテルライトに撹拌されて漂っている。

 中途半端な時間に昼食をとったので、目の前のイタリアンバイキングもさほど魅力的に映らない。すこしさっぱりしたものが欲しくなって、みんなから離れると中央の階段の横に置かれているドリンクコーナーにシャンペンを取りに行った。黒服のボーイにグラスを替えてもらって、あたりを見渡しながら一口含んだ時だった。
「私にもちょうだい」
暗闇に溶け込むような濃紺のタイトなドレス姿のミドリが階段の陰に隠れるように立っていた。
「!?」
「そんな顔しないでよ。うまく紛れ込んだでしょ。部屋で待っててもつまんないんだもん」
「…… 大胆だなぁ。着替えたのか? 最初からそのつもりだったんだな。…でもよく入れたなぁ」
「始まっちゃったら受付なんかないでしょ。お店の人に遅れたってテキトーにいったら通してくれちゃった」
ペロっと舌を出しながら屈託ない。
「電話切ってるでしょ。私を残して帰っちゃうつもりじゃなかったの? そんなことしたら車置いてっちゃうからね」
「連中に見られたらうるさいんだよ。どう説明するんだよ」
「ここは階段で見えないから大丈夫よ。いいわよ、一人でいるから…」
「またそんな暗くなって。おまえが勝手に来たんだろ。僕のせいにするなよ」
「きれいな人ね。頭よさそうだし…。あの人、社長を見る目も特別だったわ。複雑ね」
「………」
「ちょっとずうずうしかったかな。ごめんなさい。でも社長の世界がもっと知りたかったの、私。テニス馬鹿みたいじゃない。元気がとりえなんて言われたくないもん」
「あんまり飲み過ぎるなよ。…… 9時になったら出よう。電話鳴らせよ」
「うん。少し反省してます。…怒ってない?」
「ああ、大丈夫だよ」

「村田君」
「あっ、有紀…」
「お知り合い?」
「ん、あぁ。佐野君。うちのスタッフでね、…どうしてもって仕事があって連れてきたんだ」
「おめでとうございます。社長の憧れの人って聞いてたから。すばらしいパーティーですね」
「ありがとうございます」
「樫村さん、だね。有紀って呼べなくなっちゃったな」
「今まで通りでいいわよ。今日はホントにありがとう。よく来てくれたわ」
「…いつ発つの?」
「来月半ば。真夏のクリスマスって初めてだわ」
「…いつ戻って来れるのさ?」
「最低でも3年って言ってた。でも南の国は時間がゆっくりだからもっと長く感じるんじゃないかしら」
「ご主人も潜るの?」
「あの人はほとんどカナヅチよ。水が怖いって。ふふ、村田君と同じね」
「…足が立たないとこはどうもね。いいとこみたいじゃない、むこうも」
「ええ。カリブの海だし。憧れてたのよ。楽しみ…。ほら、またかって呆れてるでしょう」
「いや、うらやましいよ。変わらないから…」
「テっちゃんも変わってないじゃない。お仕事順調なんでしょ」
「うん、まあ…。それより、みんな集まって懐かしかったよ、おかげでさ」
「ええ。でも会えたのにすぐ別れるなんて辛いわ。卒業式みたいね」
「元気で…」
有紀は笑顔でうなずくだけで答えなかった。少し痩せたかな。すくっと背筋が伸びて凛とした彼女は純白のウェディングドレスを見事に着こなしている。いや従えていると言った方がいいかもしれない。艶やかで豪華な衣裳も主役の圧倒的な存在感に華を添えているだけのようだった。優雅な物腰と気品が僕には眩しかった。彼女はシャンペングラスを置くと左の方へ歩いていく。途中からまた淡いスポットが彼女を追いかけ出し、周りで歓声が上がり始めた。僕の知らない人達がたくさん彼女を囲んでいる。そう、そこには「今」の有紀がいる。あそこでスポットライトを浴びて輝いているのは、お茶目で気の強い、寂しがりやでちょっとおっちょこちょいだった10年前の有紀ではないんだ。そんな時代もあったけど彼女はあれからも決して止ってはいなかった。自分の世界を自分で創ってきた自信があの微笑みの中から溢れていた。凄いじゃないか、有紀。

「帰ろう」
「えっ、まだ8時ちょっとよ。ゲームとかあるんじゃないの? 最後までいてあげなくていいの?」
「もう充分だよ… 外の空気を吸いたいんだ」

 仕事が出来たと、ちょっと後ろめたい言い訳で仲間たちと別れた。みんなもそれ以上理由を訪ねてこない。
「おい、前薗よりお前がナンパするとはなぁ。階段のとこで話してた若い娘、名刺でも渡したのか? やるなぁお前も」
出口で駆け寄ってきた佐藤がウインクしながら耳打ちしてきて、感心したようなうらやましいようなふうだった。一瞬ドキッとしたけど彼の無邪気ぶりもなんだかおかしかった。ここで僕が女の子に声をかけるわけがないじゃないか。今そこまであっけらかんとできたらいいけどね。
 倉庫街は交通量も少なくタクシーもめったに通らない。道はわからなかったが、夜空にそびえ立つホテルを目標にすれば迷うことはないだろう。窓の所々に明かりがともっている黒く大きな四角の固まり見ながら首をすくめてゆっくり歩き出した。
 なんで僕と同じカナヅチなんかまた選んだんだよ。昔と同じじゃないか。潜ってるの上から箱メガネで見てるだけなんてかわいそうだよ。今度は無理矢理教えてあげて一緒に海中散歩するんだね。だっていくら言葉でよかったって説明されたってわかんなかったもんな。僕は頑固だったしね…。
 小走りのヒールの音がコツコツ近づいてきたと思ったら右腕を後ろからつかまれた。
「もぉ、こんな寂しいとこ一人で歩かせないでよ」
「ほんとに帰っちゃうんだから。いいの? 悲しくなっちゃったの? …ねぇ、なんか言ってよ」
「寒い」
「コート持ってこなかったの?」
「車の生活してると防寒具持つ習慣がなくなるんだなぁ。考えもしなかった、こんな寒いなんて」
「ねぇ、私走ったから少しお酒がまわっちゃったみたい。フラフラするわ」
「すぐそこだろ、見えてるんだから。しっかりしろよ」
 少し甘ったれて寄りかかってくるミドリの腰に手をまわして18階でエレベーターを降りると、オートロックに少し手間取ったが、なんとか部屋までたどりついた。ダウンライトの暗いオレンジ色でぼーとしていた室内は落ち着いたデザインでまとめられていたが、それよりも正面に広く贅沢に開放された海へ向っての窓、黒々とした宇宙にきらきらと光の砂をまき散らしたような眺めが僕たちを圧倒した。
 ミドリは挑むように体をぶつけてきた。カーテンは開けられたまま。それはたぶん自分が男を占有していることを無意識に誇示したかったのだろう。彼女は全てをリードしようとした。脱ごうとした僕の手は振払われて、シャツのボタンはじらすように一つ一つはずされていく。そのいたぶりはやがて僕の中で押さえがたい欲情へと変わっていく。牝が灯した炎は牡を目覚めさせた。コートで鍛え上げられた体は僅かな指の動きにもしなやかに反応する。指が湿った肌を探り、手のひらが体のカーブをなぞって滑る。腰が引き寄せられ舌がからみつく。耐えられなくなった喘ぎは快楽と恍惚の無意識の反応であり、そのせつない音がさらにお互いの情慾をかきたる。全身のすべてをからめあい密着させてミドリの肌の湿りと温もりをすくいとりたい思った。甘い香りのするルージュで塞がれた唇へは、溜められた唾液が細く熱い舌といっしょに送り込まれてくる。それは唇を離すと外からの光にスーッと糸を引いて輝いた。二人は動物のようだった。僕の上で目をつぶり腰をくねらせている彼女は、眉間に皺を寄せその体の奥で何かを必死で探っているようにも見えた。二人の中のあらゆるものが煮えたぎり吹き出してそれをぐちゃぐちゃと混ぜあっているような気がした。鎖骨のあたりにうっすらと浮かんでいた汗は激しい振動で小麦色の肌に筋を作っている。やがてミドリは唸りとも喘ぎともつかない声を上げて汗ばんだ体を預けてくる。湿った肉体のこすれあう音とかすれ声はこのまま中空の港の光の上に漂い流れていくんじゃないだろうか。全てのものをミドリに注ぎ込みたい強烈な衝動が突き上げる…。

「なんか食べたい」
「食事してないのか?」
僕はマルボロの煙りを天井に吐き出しながら、まだ心臓の鼓動が激しい体を大きくベットに横たえた。
「お昼からなんにも。あそこでちょっとつついただけ。一人じゃ食べるのイヤだもん」
「だから酔ったんだよ、お腹に入ってないからな。…おまえなにかに取り憑かれたみたいだったな」
「殺そうと思ったわ。私のものだもん」
「サーブ&ボレーやったみたいだよ。心臓がトコトコ大変だ」
「テニスの話はやめて。…あの人もやってたんでしょ」
「私はあの人の身替わりなの? テニスできるから?」
「………」
ルームサービスでフレンチトーストとサンドイッチ、フルーツとサラダ、コーヒーを二人分頼んだ。
「家に連絡しなくていいの? 今日帰るって言ってあるんでしょ」
「お前が心配することじゃないよ。…もうあんまりはらはらさせるなよ」
「うん」
食事は夜景を見ながら無言でとった。ミドリは昼間の緊張の糸がほぐれた安堵感もあるのだろう、外を見ながらぼやりとしている。横顔がきれいだった。窓の外は晩秋の冷えた夜空。レインボーブリッジの橋脚のフラッシュライトが、落ち着いてきた心臓の鼓動のように思えた。
 ミドリの使うシャワーの音がバスルームから聞こえてくる。有紀たちはこのホテルのどこかに泊まるのだろう。チーコとトモも一泊するって言ってたな。でもそれ以上の事を考えるのは面倒だった。気にしてどうなるのだろう、という気分だった。僕は熱いシャワーが刺すように肌に当たるのをあえて逃げなかった。踏み止まってそれに耐えることが全ての事の贖罪になるような気がした。
 今の僕はここにいた。

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planets26498 at 14:47 │Comments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!小説 

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