2008年11月15日
スターフィッシュ[4]
下腹部にキリキリと痛みを感じて目が覚めたのは、まだほんのりとしか夜が明けていない6時頃だった。小さな波がだんだん大きくなって、かけ込んだバスルームでしばらく様子をみたがおさまらない。昨日の何かかな? 胃腸があまり強くない僕は、よくこんなことになったので、しばらくすれば治るだろうとタカをくくっていた。しかし痛みの間隔は徐々に短くなりいっそう激しくなる。排泄はもう限界でなにも体には残っていないように思われた。身体中に脂汗が滲み寒気がしてきた。腰を伸ばして歩くこともできないほどの苦痛が繰り返し襲ってくる。ソファにもどって姿勢を楽にしてみたが効果は一向にない。熟睡していたミドリもこの騒ぎで起きてしまい、乱れた髪を直そうともせずにベットから心配そうに見ていた。
「大丈夫?」
「ああ、ちょっとひどいんだ。…どうしたのかな」
また激しい波が押し寄せてきて、ふらふらとバスルームにたどり着き、腰をかけるともう脳の命令を待たずに白い陶器の中に何かが飛び出た。鮮血だった。スーッと意識が一瞬遠のく。バスルームを覗きにきたミドリが悲鳴を上げた。
「えぇ、どうしたの。どうしよう。どうすればいい? ねぇ、どうなっちゃうの」
「落ち着けよ…。フロントに電話して事情を話せ…。大丈夫だから…」
「血が出てるわよ。…待ってて」
支配人らしき人が部屋に来たのは2、3分後。状況をすぐに飲み込んだ40代の小柄な彼は、チェストの上にある電話から救急車の手配をしている。ミドリは着替えをすませてはいたが、まだパニックから抜けきれていない。怯えていた。痛みは相変わらず続いている。身体中の力が抜けてしまって、苦痛に耐える力も取り上げられたような感じだった。15分ぐらいだったろうか、救急隊が到着し担架にのせられホテルの廊下の天井を見つめながら運ばれる時、また意識がぼんやりとしてきた。
どれぐらいたったのだろう。ずいぶん長かったような、多分2、30分だったと思うが時間の感覚も麻痺していた。病院の診察室に寝かされた時には医者の質問に応える元気も出てきたが、痛みはまだ治まっていない。いったいどこに連れてこられたか少し不安でもあった。痛み止めなのか注射を何本かされ、点滴がポタポタ始まる頃にはなんとか落ち着いてきて、あたりを見渡す余裕も出てきた。今、ミドリが心配そうに顔をのぞかせている。化粧をする暇は当然なく、アイラインの入っていない一重の瞼と小麦色の素顔が不安げに僕を見ていたが、その方が普段よりもずっときれいに見えた。夕べとは大違いだな。
「なに笑ってるの?」
「いや、もう大丈夫だよ。ありがとう」
「びっくりしたぁ。死んじゃうかと思ったわ」
「昨日殺そうと思ったくせに」
「心配したんだからねぇ、もぉ」
「泣くなよ。泣きたいのはこっちだよ。こんなんなっちゃって…。……これからどうなるんだろうなぁ」
ミドリは僕がひとまずなんとか落ち着いたので、一度ホテルへ戻りまた来るということになった。この病院は現在満床だそうで、とりあえず僕は使っていない外来の奥の部屋、たぶん何かの準備室として使われていたのだろう、そのためかドアがなく窓際の方が診察室とがつながっている4畳半ぐらいのスペースで様子を診るということになった。ということは部屋がつながっているということなので医者や看護婦さんの話がわりとはっきり聞こえてしまう。まだ時間が早いので一般の診察は始まっていないのだろう、朝一番の救急車に駆り出された夜勤あけの2、3人が話をしているのが聞こえた。
「あれは絶対夫婦じゃないよね。愛人かな?」
「奥さんだったらもっとしっかりしてるよね、あの人パニクってたもん。でもなかなかいい男ね」
「シーッ、聞こえるわよ。108に入ってるんだから。患者さんのこといろいろ言っちゃダメよ」
「ハーイ」
「点滴は大丈夫?」
「もう少しだと思いますけど…」
「じゃ朝礼行きましょう」
僕は残り少なくなってきた2本目の点滴の袋を見上げながら苦笑いした。そうだよな、不自然な組み合わせだと思うだろうなぁ。これからいろいろつじつま合わせが大変だ。まいったなぁ。
ポタポタと落ちてくる透明のビニールの袋の中は残り1センチぐらいになっている。今思えば笑い話なのだが、医者嫌いで点滴などしたことがない僕はこれを見てパニックをおこしかけていた。針が血管につながっているということは、あの薬がなくなったら血管に空気が入ってきてしまう。そうなったら死んじゃうじゃないか。どこだかわからない病院の一番奥の人気のない小部屋。こんなことで人知れず死んでいくのはイヤだ、と。猛烈な恐怖が襲ってきた。パニックとはそういうものだろう、針を抜けばよかったし、器具ごと歩いていってもよかったのだが、僕の頭は真っ白で、薬がこれ以上体内に入らないようにと、ベットの上に立ち上がるとビニール袋の高さまで針のささっている右腕を左手で下から支えながら水平にもちあげて大声で叫んだ。
「看護婦さーん。助けて! 助けてくれー。早くきてぇー」
それでもポタポタは止まらない。というのは点滴の袋は案外高く、普通に立ったのではまだ腕の位置が低すぎたのだ。とっさに小さな枕を足で探って引き寄せ、これで10センチは稼げると思いながらその上につま先立ちで伸び上がる。コロコロと小さな枕。下も見ないで足で枕の大きさを測って立ち続けたのはほとんど曲芸に近い。これだけのことを消耗した体力でやれたのも、こんなところで死にたくないという必死の思いからだった。また間の悪いことにちょうど看護婦さんたちが診察室の付近にいないらしく、呼べど叫べど誰も来ない。つま先立ちはもう限界で、ふくらはぎがつりそうになっている。腕を上げつづけているのも相当つらく、それも一定の高さにピタッと静止できているわけではないから、それどころか不安定な状態で全身を突っぱらかしていたので、逆に腕は大揺れで、肘の内側に刺さった針は血管を傷つけたらしく血液が点滴のチューブに逆流してくる始末。ほんとうにもうダメだと思った。
「タスケテ…、ダレカ…」
「何やってるんですか。どうしたのその格好は?」
この一言で救われた。つま先枕乗りの曲芸からやっと解放された。状況を説明し、一人にされた恐怖を半分震えながらなじるように話し出すと、その看護婦はプッと吹き出していきなり笑い出した。
「ごめんねぇ、笑っちゃって。そうよねぇ、そう考えるわよねょ。でも村田さん、これね、ここで止まるようにできてるのよ。でもわかんないわよね、ごめんなさいね。怖い思いさせちゃって」
30そこそこ、多分さっき若い看護婦をたしなめた人だろう、彫の深い二重に大きな瞳が印象的。小柄だったけど芯のしっかりした感じの人で、点滴の始末をする動きもきびきびしていて、見てても気持ち良かった。名札には芝浦第一病院、矢島陽子と。
「村田さん。お連れの方は?」
「今ホテルに戻ってますけど…」
「あのね、病室移るかもしれないの。赤痢の疑いがあるから隔離病棟へ行くことになるかもしれないんです」
「赤痢ですか…」
「検査結果がまだ出ないからねぇ。それまでもう少しここにいてもらうことになります」
「いつわかるんですか?」
「明日の朝ぐらいかな、多分。真正だったら病院変わることになるかもしれませんね」
「はぁ。今でもどこにいるかわかんないだからどうでもいいけど」
「元気出して。たぶん赤痢じゃないと思うけど。私、前にも赤痢患者みてるから。ドクターじゃないからあんまりこんなこと言えないけど、おそらく大丈夫よ」
「ねぇ、看護婦さん。ちょっといろいろ複雑なんだよねぇ」
「どっちにしても3、4日は入院ね。ご家族とかに連絡した方がいいでしょ。もう少ししたら車椅子で電話のとこまで連れていってあげるからご自分でかけてください」
「……」
それからが大変だった。ホテルからは支配人とサブマネージャーというのが訪ねてきて、昨日の夜の食事についていろいろ尋ねられた。そりゃそうだ、ホテルから食中毒が出たら大変なことになる。今朝あの部屋でてきぱきと僕を助けてくれたのは支配人じゃなくて伊藤さんというサブマネージャーだった。とにかくホテルとしては気が気ではなかったと思う。支配人はお見舞いの挨拶だけで先に帰ったが、この事件の細かな質問とか、病院の手続きのこととか、実際のことはやっぱり伊藤さんが丁寧にやってくれた。
医者の話と食事をとった時間を考え合わせると夜食にしたサンドイッチはどうも濡れ衣みたいで、そうなると僕はホテルでは食事はしておらず、ということは中華料理かパーティーということになって、その時はそれぞれ仲間が一緒だったから、これは面倒なことになるなぁと少し不安になった。事情を伊藤さんに話すと、ホテルの宿泊客の中で他には今のところ患者は出ていないということで有紀やチーコやトモは無事らしい、ということはパーティーのイタリアンでもなさそう。中華料理屋はテナントで入っている店だそうで、ホテルとしては直接の管轄にはないらしかったが、これもみんなで食べたわけだから確認してみればわかるはずだ。とりあえずホテルをチェックアウトしてきたミドリが病室に戻ってきたので、公衆電話まで車椅子を押してもらい岡村の携帯に電話してみる。
「やあ、どうしたの朝から。昨日は先に帰っちゃって。けっこうあれから盛り上がったよ」
「うん、残念だったけど。ところで今どこにいる?」
「どこって、んーカプセルだよ、渋谷の」
「あれっ、阿佐ヶ谷じゃなかったの?」
「いや、あのあと山口たちと飲んじまってさ、そのあとヘルス行っちゃったんだ、ヘヘーッ。結局明け方だよ。久々にカイホーされてね。カミさんの実家に朝帰りなんてできねーからさ。ここでやりすごしてんのよ」
「そりゃ凄いな。他には誰がいたの?」
「俺と佐藤と前薗の3人。岡部と山口は帰ったよ」
「みんな大丈夫か? 飲み過ぎで体とか平気か?」
「なに言ってんだよ、あれぐらいなんでもないさ。明日のこと考えると気が重いだけでピンピンしてるよ。それよりおまえナンパしてたんだってぇ、佐藤が言ってたぜ。まさかその娘と御一泊じゃねーだろーなぁ」
「…まさか。そんな器用じゃないよ」
あとは適当に話を続けたが、岡村は下半身まで元気そのもので、あとの連中も大丈夫だったらしい。はっきりとは言えないけど、つまり中華料理もシロらしい。原因が特定できなければホテルにも迷惑がかかってしまう。事を大っぴらにしたくにかったし…
明日のことも気掛かりだった。橋本氏へ届ける仕事があるんだった。多少遅れても大丈夫なやつだけど、またあの人ははうるさいからなぁ、すぐ電話してくるし…
……そういえば橋本さんからの電話があったよなぁ!? ん! ……あの後フランクフルト食べた!
あれだ! へんに軟らかかった、そう言えば。まずかったし。そう、あのおばちゃんだ。
状況証拠しかないけど犯人はおそらくソーセージ。あぁそうだあれだよあれ、なぁんだ、まったくもう。
いずれにせよ明日の朝の検査結果待ちで、その間は安静にということを言い渡されている。だがそんなこと言っていられない。ソーセージ1本のおかげで、そこら中に対して嘘をでっちあげて辻褄合わせをしなけりゃならない。夕方までに関係各位まるくおさめる大ウソシナリオを頭の中で書き上げて、配役を決めて手配にかかった。看病に残ると言うミドリは、現実にはそんなことできるわけもなく、明日からの2、3日の仕事の段取りを言い聞かせ無理矢理帰らせた。あいつにとってもショックな出来事だったし、でも感謝しなくちゃいけないな。でもこんな部屋でよかった。同室の人がいたらあきれたろうな。辻褄とはよく言ったものでとにかく妻が大変。少し後ろめたかったが、彼女のためにでっちあげのストーリーをまことしやかに作らなければならない。矢島さんと伊藤さんには一生頭が上がらないだろうな。
夕方病室に来た矢島看護婦はすこし笑っていた。
「村田さん、あんまり奥さん泣かせちゃだめよ、余計な事かもしれないけど… 予定より早く結果が出たわ。赤痢じゃないし食中毒でもないって。急性腸カタル。ちょっと重い食あたりってことですね。ドクターがちゃんと言ってくれるけどね。」
「でも血が…」
「それ、ん。ちょっと見ますからね、お尻出して」
寝ているままくるりと横を向かされると、パンツを下げられてお尻をころりと出し、手で広げられてしげしげと見られた。スースーして寒い。
「これね、やっぱり」
「えぇ、なんですか? 恥ずかしいですよ、こんなの」
「下痢でね肛門が切れたのよ、ここのところ。切れ痔みたいなものよ。お薬つけときますからね」
軟膏のようなものを塗られた思ったらお尻をピシャリとやられた。
「痛っ。なにするんですか」
「お仕置きよ。若い娘たちがうわさしてうるさいわ。あんなきれいな人、奥さんじゃないのに、しょうがないわね」
「ねぇ矢島さん。結婚してるの?」
「なんですか、いきなり。ちょっとしみるかもしれませんよ。……してた…わ」
「じゃ今は? 独り?」
「もういいでしょ、そんなこと。ちょっと失礼よ。あんまり直球だから、答えちゃったじゃないのぉ」
「感謝してるんですよ。だから矢島さんのことよく知りたくって」
「そういうのが手なのね。優しいんだ。だめだめ、あなたは患者さん、わたしは看護婦。しかも会ったばかりじゃない」
「腕見せて。あぁやっぱり内出血なってるわね。でも大丈夫よ。痛みはないでしょ。あんなことやるから…、おかしな人ね。けっこうおっちょこちょいでしょ」
「それはひどいなぁ。ホントに死ぬって思ったんだから」
「村田さんはだからもてるのね、多分。ヌケてるとこが母性本能をくすぐるのよ。私もう今日はおしまいなの。また明日ね」
結局3日間の入院ということになり退屈な時間を過ごすはめになったが、もちろんそんなことは誰も知らないわけで、血相を変えて駆けつけた妻以外は見舞いに来る人もおらず、しかも辻褄合わせのシナリオを確実に実行せねばと思う緊張感から、熱心を目を落としている古い雑誌のゴシップ記事もさっぱり頭に入ってこなかった。もちろんあのホテルに一泊した事にはなっていない。居心地の悪い3日間はまさに天罰の感があり、退屈どころか冷や汗の連続。退院の日に矢島さんがチョロっと舌を出してウィンクをしながら見送ってくれたのが、「同志」って感じがして嬉しくもあり、もう会えないかと思うとちょっとさびしい気もした。
帰りの首都高は相変わらずの渋滞で、それがかえって運転には慣れない妻には幸いしているようだ。
「この車、車検からミドリちゃんがとってきてくれたのよ。彼女にはいろいろやってもらって助かるわ」
「……」
「あ、そうそう、病院に来る前、三浦さんって大学の時の方、私たちの結婚式に受付してくれたあの人、チーコさんっていうんだっけ、電話があったわ。なつかしくていろいろおしゃべりしちゃった。パーティーの写真送ってくださるって新しい住所聞いてきたのよ。今、和歌山なんですってねぇ、大変よねぇ転勤があるとこは。楽しかったみたいね、同窓会みたいで…。ずいぶん羽を伸ばしましたって言ってたわ。奥様もたまには出かけた方がいいですよって言われたわよ。そうそう、泊まったホテルの同じ階で病人が出たんだって。救急隊員が来てドラマみたいでカッコよかったなんて言ってたわ。おもしろい人よねぇ」
「! ……」
コーヒーの香りが部屋に漂っている。今日から始まるジャパンオープンは7日間で、日曜日に男女の決勝が行われる。ミドリにせがまれて取ったチケットは金曜日のコートサイドで、その日は取材と撮影で出張ということになっていた。それまでにやらなければならないことが山積している。
今、たてつづけに吸った3本のマルボロを灰皿で乱暴に消したのは少し苛々しているからで、月曜の朝のいつもの儀式とはちょっと違っていた。煮詰まってしまっていた。先週から準備に入っているプロジェクトは僕が1年前から提案をし続けてようやく実現に漕ぎ着けたもの。病院の医療体制とネットワークをわかりやすく地域に紹介するWebページとそのシステムだ。全体の構成やプログラムの大部分はある程度のメドがたったものの、そのメインとなるビジュアルイメージが確定できないでいる。様々なアイデアが浮かんでは消え、デザインがいくつか作られたがどれもこれもが今一つで、気に入ったものができないでいるのだ。モチーフになにを使ってもピンとこなかった。医療という冷たくイメージされがちな現場を、あたたかさで表現したかったのだが、それに応えてくれるものがなかったのだ。八方ふさがりだった。
臨場感、あたたかさ、人、笑顔…
何がいいのだろう…
医療の現場…
……
そうだ、矢島さん。矢島陽子看護婦。彼女を撮影しよう。あの笑顔、あの目、あの雰囲気。どれをとっても今回のイメージを充分に満たしてくれそうだ。なにしろ実体験があるんだ。僕の直感に間違いはない。NTTの番号案内に病院の名を告げると、コピーをとっていたミドリが不思議そうな顔をしてこっちを見ている。半年前の事件は彼女にとってもまだ生々しい。
「矢島さん? 村田です、覚えてます? 僕のこと。半年前救急車で朝運ばれた」
「ええ、点滴事件の村田さんでしょ。忘れないわよ、あんなことする人いないもん。どうしました?」
「嬉しいな。ありがとうございます。実はね…」
事情を話すと最初は驚いてずいぶん尻込みしたが、本気の説得が効いたのだろう、結局快く引き受けてくれることになった。病院内での撮影は院長の許可が必要だろうということで、確実な返事と日程は向こうから連絡が来ることになった。またあの病院に行く。また矢島さんに会えるんだ。そのことだけで今回の仕事はすべてうまくような気がしてくる。助手はやっぱりミドリかな。若い看護婦たちがまた騒ぐだろうなぁ、あの時の人だって。いや患者はたくさんいるんだ、覚えていないかもしれない。矢島さんは特別なんだ。あれこれ思い出してニヤニヤと独り笑いをしていると連絡が来た。土曜日の午後ならば、という。金曜の撮影に続いてカレンダーが埋まることになった。でもミドリはやっぱり一日だけで帰そう。土曜は助手はなしでもいいだろう。いい写真が撮れそうだ。一人でまたあのホテルに泊まるのもいいな。そう、今度はソーセージはやめておこう。
「佐野君、カメラマン土曜日、手配して。そう、なんだかんだ一日かかるなぁ。…それと雨宮さんの原稿どうなってる? あれ金曜いっぱいじゃなかったのか。催促しといてよ」
「さっき電話ありましたよ、メールしときましたって。撮影の立ち合いはお一人でいいんですか…?」
「5、6カットだからいいだろう。休みの日だしな」
ミドリがちょっとふくれている。またあそこへ行けると思っていたんだろう。でも今度は僕一人でやるよ。
Macを立ち上げてメールのアイコンをクリックすると、休み明けのPCに20通の着信があった。メルマガやDMの中から拾い出すべきなのは3通。1通は悪友からの定時連絡。もう1通は締切を2日過ぎたコピーライターからのテキストデータ。最後の1通。今朝の4時に届いたそのアドレスは初めて見るものでどこの誰だか名前の表記がない。いたずらかも……
starfish@unmx.cos.com
「……?」
『先日はありがとうございました。早いもので、もうこっちへ来て5ヶ月になります。やっとネットにつながりました。ここは治安があまりよくないけど、なかなかいい所。のんびりやっています。そう、昨日初めてここの海に潜りました。すばらしかった。ごめんね、いつもこればっかりで(笑)
赤いヒトデを見つけました。また逃がしてあげたけど…』
今週は忙しくなりそうだ。
完
「大丈夫?」
「ああ、ちょっとひどいんだ。…どうしたのかな」
また激しい波が押し寄せてきて、ふらふらとバスルームにたどり着き、腰をかけるともう脳の命令を待たずに白い陶器の中に何かが飛び出た。鮮血だった。スーッと意識が一瞬遠のく。バスルームを覗きにきたミドリが悲鳴を上げた。
「えぇ、どうしたの。どうしよう。どうすればいい? ねぇ、どうなっちゃうの」
「落ち着けよ…。フロントに電話して事情を話せ…。大丈夫だから…」
「血が出てるわよ。…待ってて」
支配人らしき人が部屋に来たのは2、3分後。状況をすぐに飲み込んだ40代の小柄な彼は、チェストの上にある電話から救急車の手配をしている。ミドリは着替えをすませてはいたが、まだパニックから抜けきれていない。怯えていた。痛みは相変わらず続いている。身体中の力が抜けてしまって、苦痛に耐える力も取り上げられたような感じだった。15分ぐらいだったろうか、救急隊が到着し担架にのせられホテルの廊下の天井を見つめながら運ばれる時、また意識がぼんやりとしてきた。
どれぐらいたったのだろう。ずいぶん長かったような、多分2、30分だったと思うが時間の感覚も麻痺していた。病院の診察室に寝かされた時には医者の質問に応える元気も出てきたが、痛みはまだ治まっていない。いったいどこに連れてこられたか少し不安でもあった。痛み止めなのか注射を何本かされ、点滴がポタポタ始まる頃にはなんとか落ち着いてきて、あたりを見渡す余裕も出てきた。今、ミドリが心配そうに顔をのぞかせている。化粧をする暇は当然なく、アイラインの入っていない一重の瞼と小麦色の素顔が不安げに僕を見ていたが、その方が普段よりもずっときれいに見えた。夕べとは大違いだな。
「なに笑ってるの?」
「いや、もう大丈夫だよ。ありがとう」
「びっくりしたぁ。死んじゃうかと思ったわ」
「昨日殺そうと思ったくせに」
「心配したんだからねぇ、もぉ」
「泣くなよ。泣きたいのはこっちだよ。こんなんなっちゃって…。……これからどうなるんだろうなぁ」
ミドリは僕がひとまずなんとか落ち着いたので、一度ホテルへ戻りまた来るということになった。この病院は現在満床だそうで、とりあえず僕は使っていない外来の奥の部屋、たぶん何かの準備室として使われていたのだろう、そのためかドアがなく窓際の方が診察室とがつながっている4畳半ぐらいのスペースで様子を診るということになった。ということは部屋がつながっているということなので医者や看護婦さんの話がわりとはっきり聞こえてしまう。まだ時間が早いので一般の診察は始まっていないのだろう、朝一番の救急車に駆り出された夜勤あけの2、3人が話をしているのが聞こえた。
「あれは絶対夫婦じゃないよね。愛人かな?」
「奥さんだったらもっとしっかりしてるよね、あの人パニクってたもん。でもなかなかいい男ね」
「シーッ、聞こえるわよ。108に入ってるんだから。患者さんのこといろいろ言っちゃダメよ」
「ハーイ」
「点滴は大丈夫?」
「もう少しだと思いますけど…」
「じゃ朝礼行きましょう」
僕は残り少なくなってきた2本目の点滴の袋を見上げながら苦笑いした。そうだよな、不自然な組み合わせだと思うだろうなぁ。これからいろいろつじつま合わせが大変だ。まいったなぁ。
ポタポタと落ちてくる透明のビニールの袋の中は残り1センチぐらいになっている。今思えば笑い話なのだが、医者嫌いで点滴などしたことがない僕はこれを見てパニックをおこしかけていた。針が血管につながっているということは、あの薬がなくなったら血管に空気が入ってきてしまう。そうなったら死んじゃうじゃないか。どこだかわからない病院の一番奥の人気のない小部屋。こんなことで人知れず死んでいくのはイヤだ、と。猛烈な恐怖が襲ってきた。パニックとはそういうものだろう、針を抜けばよかったし、器具ごと歩いていってもよかったのだが、僕の頭は真っ白で、薬がこれ以上体内に入らないようにと、ベットの上に立ち上がるとビニール袋の高さまで針のささっている右腕を左手で下から支えながら水平にもちあげて大声で叫んだ。
「看護婦さーん。助けて! 助けてくれー。早くきてぇー」
それでもポタポタは止まらない。というのは点滴の袋は案外高く、普通に立ったのではまだ腕の位置が低すぎたのだ。とっさに小さな枕を足で探って引き寄せ、これで10センチは稼げると思いながらその上につま先立ちで伸び上がる。コロコロと小さな枕。下も見ないで足で枕の大きさを測って立ち続けたのはほとんど曲芸に近い。これだけのことを消耗した体力でやれたのも、こんなところで死にたくないという必死の思いからだった。また間の悪いことにちょうど看護婦さんたちが診察室の付近にいないらしく、呼べど叫べど誰も来ない。つま先立ちはもう限界で、ふくらはぎがつりそうになっている。腕を上げつづけているのも相当つらく、それも一定の高さにピタッと静止できているわけではないから、それどころか不安定な状態で全身を突っぱらかしていたので、逆に腕は大揺れで、肘の内側に刺さった針は血管を傷つけたらしく血液が点滴のチューブに逆流してくる始末。ほんとうにもうダメだと思った。
「タスケテ…、ダレカ…」
「何やってるんですか。どうしたのその格好は?」
この一言で救われた。つま先枕乗りの曲芸からやっと解放された。状況を説明し、一人にされた恐怖を半分震えながらなじるように話し出すと、その看護婦はプッと吹き出していきなり笑い出した。
「ごめんねぇ、笑っちゃって。そうよねぇ、そう考えるわよねょ。でも村田さん、これね、ここで止まるようにできてるのよ。でもわかんないわよね、ごめんなさいね。怖い思いさせちゃって」
30そこそこ、多分さっき若い看護婦をたしなめた人だろう、彫の深い二重に大きな瞳が印象的。小柄だったけど芯のしっかりした感じの人で、点滴の始末をする動きもきびきびしていて、見てても気持ち良かった。名札には芝浦第一病院、矢島陽子と。
「村田さん。お連れの方は?」
「今ホテルに戻ってますけど…」
「あのね、病室移るかもしれないの。赤痢の疑いがあるから隔離病棟へ行くことになるかもしれないんです」
「赤痢ですか…」
「検査結果がまだ出ないからねぇ。それまでもう少しここにいてもらうことになります」
「いつわかるんですか?」
「明日の朝ぐらいかな、多分。真正だったら病院変わることになるかもしれませんね」
「はぁ。今でもどこにいるかわかんないだからどうでもいいけど」
「元気出して。たぶん赤痢じゃないと思うけど。私、前にも赤痢患者みてるから。ドクターじゃないからあんまりこんなこと言えないけど、おそらく大丈夫よ」
「ねぇ、看護婦さん。ちょっといろいろ複雑なんだよねぇ」
「どっちにしても3、4日は入院ね。ご家族とかに連絡した方がいいでしょ。もう少ししたら車椅子で電話のとこまで連れていってあげるからご自分でかけてください」
「……」
それからが大変だった。ホテルからは支配人とサブマネージャーというのが訪ねてきて、昨日の夜の食事についていろいろ尋ねられた。そりゃそうだ、ホテルから食中毒が出たら大変なことになる。今朝あの部屋でてきぱきと僕を助けてくれたのは支配人じゃなくて伊藤さんというサブマネージャーだった。とにかくホテルとしては気が気ではなかったと思う。支配人はお見舞いの挨拶だけで先に帰ったが、この事件の細かな質問とか、病院の手続きのこととか、実際のことはやっぱり伊藤さんが丁寧にやってくれた。
医者の話と食事をとった時間を考え合わせると夜食にしたサンドイッチはどうも濡れ衣みたいで、そうなると僕はホテルでは食事はしておらず、ということは中華料理かパーティーということになって、その時はそれぞれ仲間が一緒だったから、これは面倒なことになるなぁと少し不安になった。事情を伊藤さんに話すと、ホテルの宿泊客の中で他には今のところ患者は出ていないということで有紀やチーコやトモは無事らしい、ということはパーティーのイタリアンでもなさそう。中華料理屋はテナントで入っている店だそうで、ホテルとしては直接の管轄にはないらしかったが、これもみんなで食べたわけだから確認してみればわかるはずだ。とりあえずホテルをチェックアウトしてきたミドリが病室に戻ってきたので、公衆電話まで車椅子を押してもらい岡村の携帯に電話してみる。
「やあ、どうしたの朝から。昨日は先に帰っちゃって。けっこうあれから盛り上がったよ」
「うん、残念だったけど。ところで今どこにいる?」
「どこって、んーカプセルだよ、渋谷の」
「あれっ、阿佐ヶ谷じゃなかったの?」
「いや、あのあと山口たちと飲んじまってさ、そのあとヘルス行っちゃったんだ、ヘヘーッ。結局明け方だよ。久々にカイホーされてね。カミさんの実家に朝帰りなんてできねーからさ。ここでやりすごしてんのよ」
「そりゃ凄いな。他には誰がいたの?」
「俺と佐藤と前薗の3人。岡部と山口は帰ったよ」
「みんな大丈夫か? 飲み過ぎで体とか平気か?」
「なに言ってんだよ、あれぐらいなんでもないさ。明日のこと考えると気が重いだけでピンピンしてるよ。それよりおまえナンパしてたんだってぇ、佐藤が言ってたぜ。まさかその娘と御一泊じゃねーだろーなぁ」
「…まさか。そんな器用じゃないよ」
あとは適当に話を続けたが、岡村は下半身まで元気そのもので、あとの連中も大丈夫だったらしい。はっきりとは言えないけど、つまり中華料理もシロらしい。原因が特定できなければホテルにも迷惑がかかってしまう。事を大っぴらにしたくにかったし…
明日のことも気掛かりだった。橋本氏へ届ける仕事があるんだった。多少遅れても大丈夫なやつだけど、またあの人ははうるさいからなぁ、すぐ電話してくるし…
……そういえば橋本さんからの電話があったよなぁ!? ん! ……あの後フランクフルト食べた!
あれだ! へんに軟らかかった、そう言えば。まずかったし。そう、あのおばちゃんだ。
状況証拠しかないけど犯人はおそらくソーセージ。あぁそうだあれだよあれ、なぁんだ、まったくもう。
いずれにせよ明日の朝の検査結果待ちで、その間は安静にということを言い渡されている。だがそんなこと言っていられない。ソーセージ1本のおかげで、そこら中に対して嘘をでっちあげて辻褄合わせをしなけりゃならない。夕方までに関係各位まるくおさめる大ウソシナリオを頭の中で書き上げて、配役を決めて手配にかかった。看病に残ると言うミドリは、現実にはそんなことできるわけもなく、明日からの2、3日の仕事の段取りを言い聞かせ無理矢理帰らせた。あいつにとってもショックな出来事だったし、でも感謝しなくちゃいけないな。でもこんな部屋でよかった。同室の人がいたらあきれたろうな。辻褄とはよく言ったものでとにかく妻が大変。少し後ろめたかったが、彼女のためにでっちあげのストーリーをまことしやかに作らなければならない。矢島さんと伊藤さんには一生頭が上がらないだろうな。
夕方病室に来た矢島看護婦はすこし笑っていた。
「村田さん、あんまり奥さん泣かせちゃだめよ、余計な事かもしれないけど… 予定より早く結果が出たわ。赤痢じゃないし食中毒でもないって。急性腸カタル。ちょっと重い食あたりってことですね。ドクターがちゃんと言ってくれるけどね。」
「でも血が…」
「それ、ん。ちょっと見ますからね、お尻出して」
寝ているままくるりと横を向かされると、パンツを下げられてお尻をころりと出し、手で広げられてしげしげと見られた。スースーして寒い。
「これね、やっぱり」
「えぇ、なんですか? 恥ずかしいですよ、こんなの」
「下痢でね肛門が切れたのよ、ここのところ。切れ痔みたいなものよ。お薬つけときますからね」
軟膏のようなものを塗られた思ったらお尻をピシャリとやられた。
「痛っ。なにするんですか」
「お仕置きよ。若い娘たちがうわさしてうるさいわ。あんなきれいな人、奥さんじゃないのに、しょうがないわね」
「ねぇ矢島さん。結婚してるの?」
「なんですか、いきなり。ちょっとしみるかもしれませんよ。……してた…わ」
「じゃ今は? 独り?」
「もういいでしょ、そんなこと。ちょっと失礼よ。あんまり直球だから、答えちゃったじゃないのぉ」
「感謝してるんですよ。だから矢島さんのことよく知りたくって」
「そういうのが手なのね。優しいんだ。だめだめ、あなたは患者さん、わたしは看護婦。しかも会ったばかりじゃない」
「腕見せて。あぁやっぱり内出血なってるわね。でも大丈夫よ。痛みはないでしょ。あんなことやるから…、おかしな人ね。けっこうおっちょこちょいでしょ」
「それはひどいなぁ。ホントに死ぬって思ったんだから」
「村田さんはだからもてるのね、多分。ヌケてるとこが母性本能をくすぐるのよ。私もう今日はおしまいなの。また明日ね」
結局3日間の入院ということになり退屈な時間を過ごすはめになったが、もちろんそんなことは誰も知らないわけで、血相を変えて駆けつけた妻以外は見舞いに来る人もおらず、しかも辻褄合わせのシナリオを確実に実行せねばと思う緊張感から、熱心を目を落としている古い雑誌のゴシップ記事もさっぱり頭に入ってこなかった。もちろんあのホテルに一泊した事にはなっていない。居心地の悪い3日間はまさに天罰の感があり、退屈どころか冷や汗の連続。退院の日に矢島さんがチョロっと舌を出してウィンクをしながら見送ってくれたのが、「同志」って感じがして嬉しくもあり、もう会えないかと思うとちょっとさびしい気もした。
帰りの首都高は相変わらずの渋滞で、それがかえって運転には慣れない妻には幸いしているようだ。
「この車、車検からミドリちゃんがとってきてくれたのよ。彼女にはいろいろやってもらって助かるわ」
「……」
「あ、そうそう、病院に来る前、三浦さんって大学の時の方、私たちの結婚式に受付してくれたあの人、チーコさんっていうんだっけ、電話があったわ。なつかしくていろいろおしゃべりしちゃった。パーティーの写真送ってくださるって新しい住所聞いてきたのよ。今、和歌山なんですってねぇ、大変よねぇ転勤があるとこは。楽しかったみたいね、同窓会みたいで…。ずいぶん羽を伸ばしましたって言ってたわ。奥様もたまには出かけた方がいいですよって言われたわよ。そうそう、泊まったホテルの同じ階で病人が出たんだって。救急隊員が来てドラマみたいでカッコよかったなんて言ってたわ。おもしろい人よねぇ」
「! ……」
コーヒーの香りが部屋に漂っている。今日から始まるジャパンオープンは7日間で、日曜日に男女の決勝が行われる。ミドリにせがまれて取ったチケットは金曜日のコートサイドで、その日は取材と撮影で出張ということになっていた。それまでにやらなければならないことが山積している。
今、たてつづけに吸った3本のマルボロを灰皿で乱暴に消したのは少し苛々しているからで、月曜の朝のいつもの儀式とはちょっと違っていた。煮詰まってしまっていた。先週から準備に入っているプロジェクトは僕が1年前から提案をし続けてようやく実現に漕ぎ着けたもの。病院の医療体制とネットワークをわかりやすく地域に紹介するWebページとそのシステムだ。全体の構成やプログラムの大部分はある程度のメドがたったものの、そのメインとなるビジュアルイメージが確定できないでいる。様々なアイデアが浮かんでは消え、デザインがいくつか作られたがどれもこれもが今一つで、気に入ったものができないでいるのだ。モチーフになにを使ってもピンとこなかった。医療という冷たくイメージされがちな現場を、あたたかさで表現したかったのだが、それに応えてくれるものがなかったのだ。八方ふさがりだった。
臨場感、あたたかさ、人、笑顔…
何がいいのだろう…
医療の現場…
……
そうだ、矢島さん。矢島陽子看護婦。彼女を撮影しよう。あの笑顔、あの目、あの雰囲気。どれをとっても今回のイメージを充分に満たしてくれそうだ。なにしろ実体験があるんだ。僕の直感に間違いはない。NTTの番号案内に病院の名を告げると、コピーをとっていたミドリが不思議そうな顔をしてこっちを見ている。半年前の事件は彼女にとってもまだ生々しい。
「矢島さん? 村田です、覚えてます? 僕のこと。半年前救急車で朝運ばれた」
「ええ、点滴事件の村田さんでしょ。忘れないわよ、あんなことする人いないもん。どうしました?」
「嬉しいな。ありがとうございます。実はね…」
事情を話すと最初は驚いてずいぶん尻込みしたが、本気の説得が効いたのだろう、結局快く引き受けてくれることになった。病院内での撮影は院長の許可が必要だろうということで、確実な返事と日程は向こうから連絡が来ることになった。またあの病院に行く。また矢島さんに会えるんだ。そのことだけで今回の仕事はすべてうまくような気がしてくる。助手はやっぱりミドリかな。若い看護婦たちがまた騒ぐだろうなぁ、あの時の人だって。いや患者はたくさんいるんだ、覚えていないかもしれない。矢島さんは特別なんだ。あれこれ思い出してニヤニヤと独り笑いをしていると連絡が来た。土曜日の午後ならば、という。金曜の撮影に続いてカレンダーが埋まることになった。でもミドリはやっぱり一日だけで帰そう。土曜は助手はなしでもいいだろう。いい写真が撮れそうだ。一人でまたあのホテルに泊まるのもいいな。そう、今度はソーセージはやめておこう。
「佐野君、カメラマン土曜日、手配して。そう、なんだかんだ一日かかるなぁ。…それと雨宮さんの原稿どうなってる? あれ金曜いっぱいじゃなかったのか。催促しといてよ」
「さっき電話ありましたよ、メールしときましたって。撮影の立ち合いはお一人でいいんですか…?」
「5、6カットだからいいだろう。休みの日だしな」
ミドリがちょっとふくれている。またあそこへ行けると思っていたんだろう。でも今度は僕一人でやるよ。
Macを立ち上げてメールのアイコンをクリックすると、休み明けのPCに20通の着信があった。メルマガやDMの中から拾い出すべきなのは3通。1通は悪友からの定時連絡。もう1通は締切を2日過ぎたコピーライターからのテキストデータ。最後の1通。今朝の4時に届いたそのアドレスは初めて見るものでどこの誰だか名前の表記がない。いたずらかも……
starfish@unmx.cos.com
「……?」
『先日はありがとうございました。早いもので、もうこっちへ来て5ヶ月になります。やっとネットにつながりました。ここは治安があまりよくないけど、なかなかいい所。のんびりやっています。そう、昨日初めてここの海に潜りました。すばらしかった。ごめんね、いつもこればっかりで(笑)
赤いヒトデを見つけました。また逃がしてあげたけど…』
今週は忙しくなりそうだ。
完

