2008年11月13日

タイム・ウェイツ・フォー・ノー・ワン[2]

 残り二日の準備期間はあっという間で、我がクラブの店舗はなんとか形になった。キャンパスを分譲地のように区画されたテント群の中で、我々のクラブははT字路の角を占めていた。テントの南と東が人の流れに面することになり、他の団体より2倍有利だった。この恵まれた環境を活かさない手はない。南面と東面でまったく違うものをやれば二つのテントを出したと同じことになる。この考え方をしつこく先輩方に説いてまわり、それが結局、じゃあおまえヤレ、につながったのである。言ったからには後には引けぬ。僕がやらなきゃ誰がやる。てな具合でかなり気負っていたし、そのボルテージは今までになく高かった。
 何をやったら一番効率よく儲かるか。硬軟取り混ぜて議論百出、出た結論は、ヤキトリ屋とクレープ屋だった。ヤキトリの方は去年もやった実績があり道具もそろっていたし、材料を卸値で分けてくれる肉屋もルートがあった。いかにたくさんさばくかがポイントで、そこが知恵のしぼりどころでもあった。問題はもう一つ、クレープの方。『気持ち悪い。なんだその組み合わせは。二兎を追うものは一兎を得ず。八方美人的経営だ。クレープってなに? ヤキトリにクレープ巻いてタレつけて出すのか。無茶だ。常識はずれ。子供だまし』 まぁ、言うわ言うわ、ありったけの文句を並べられてビッグプランは中傷された。だからよけい燃えたのだ。

 今回のプロジェクトにとても協力的なのが、前園と大西だった。というのも2週間前、三人で練習の帰り道に新規開拓だぁと、勢いをつけて飛び込んだちょっと高級そうな品のいい喫茶店、夜はお酒が出てバーになる「シャンツェ」での衝撃の出会いが原因だった。無垢のマホガニー一枚板のカウンターに座った学生3人はいかにも場違いで、店内の見たこともないような調度品に目を奪われていると、左端の前園が僕を肘でつっついた。
「おい、見ろよ」
視線で差し示したカウンターの中には、思わずうっとりと見とれてしまう、目のクリッとした彫りの深いハーフみたいな顔だちの人が微笑んでいた。実際後でわかったのだが、8分の1はオランダの血が入っているそうで、そう見えたのも納得がいった。コーヒーだけというのも芸がなく、何にしようかとメニューをめくっていると
「今度、クレープ始めたんですけどいかがですか?」
と、その人がカウンターの中から声を掛けてきた。そのしゃべり方がなんとも優雅で、浮世離れしてるというか、僕たちみたいな体育小僧のデリカシーのない粗雑な動物じゃなくて、しかもなんか神秘的な感じもして、口がポカーン、目がトローンとしてしまっていた。
「クレープってなんですか?」
気持ちのいい夢を見ているところを無理やり起こされるような感じで唐突に、しかも予想もしなかった大西のマヌケな質問に、僕と前園はびっくりして顔を見合わせてしまったが、彼女もちょっと面喰らったみたいで、でもにっこり笑うと
「じゃあ、ちょっと待っててね」
とお皿にクレープとブルーベリージャムを乗せて、
「食べてみて」
と出してくれた。正直、その当時クレープというのはまだまだマイナーで、お皿に乗ってくる付け合わせかオマケみたいなものぐらいにしか思っていなかったが、いわゆるテイクアウト用のものが原宿で大流行し始めたのを雑誌やウワサ話しで聞いてはいた。
 僕の前に置かれたクレープを三人でつっついて、感心したり、はしゃいだり、ひと騒ぎやらかしてしまったが、店の中は三人の世間知らずと、それをほほえましく見守ってくれたお姉様だけだったので、しばらくするとすっかり打ち解けてリラックスしてしまった。
「なあ、これケヤキでやろうよ。原宿みたいな感じでさ」
僕の一言で、三人はシャンツェに三日通った。三日目にはずうずうしくカウンターの中まで入れてもらって作り方を教わり、しかもケヤキの期間中その道具、フライパンを逆さまにしたような形のアメリカ製の電気クレープメーカーとやらを貸してもらえることにまで話を盛り上げてしまったのである。ちなみにカウンターの中のお姉様は緑さんといい、お母さんがオーナーでこの店をまかされているしっかりものでもあり、また偶然にも美大に行っていて僕たちより2つ上(年が近いというだけで僕はぐっと親近感を覚えてしまったが…)、最初のイメージのミステリアスさがそれでなんとなく説明がつくような人だったのだ。どうも僕は美大系に縁があり、また弱い傾向があった。彼女は、年上だったけど僕とウマが合った。でも、落ち着きというか、しっとりとした雰囲気を持っている人で、有紀にはない大人の女性を僕は感じていたのだろう。今までとは別の何かが胸の中で生まれたような気がしていた。
 次の日は大西と前園が先に帰ってしまい、でも僕はまた緑さんに会いに行った。時間が遅かったのでお店はライトを落としていてお酒の時間になっている。中年の小柄なバーテンがカウンターの中にいる。緑さんが味方のような気がしておもいきって入ってはみたものの、店は一組の大人のカップルがいるだけで僕はますますその雰囲気に不釣り合いに思えて、もう来たことを後悔し始めていた。緑さんはというと、一番奥のテーブルに一人座って窓を見つめながらタバコを吸っていた。僕が来たことにまだ気がつかない。恐る恐る近づくと振り向いてちょっと驚いたようだった。
「あら。今日は一人?」
「ええ。なんとなく来ちゃいました。そこいいですか?」
「カウンターに行きましょ。あなたの隣に座わらせて」
昨日までは三人だったので、必要以上にはしゃいでしまってどうも違う自分を見せたような感じだったのだが、かといって一人になると何を話したものか戸惑ってしまう。でもカッコつけてもしょうがない。
「別に用はないんです。ただ3人で来るとどうもはしゃいじゃって… あれって僕じゃないんです。普段は無口なんですけど…、それが言いたくて。スイマセン」
「うん。そんな気がしてたわ。村田君はもっと深い人かなぁって、さっき思ってたところよ。待ってたわ」
「…」
「何にする?」
「あんまりお酒に詳しくないんです。強くもないし…」
「じゃあまかせて。
…ハーパーのロックをダブルでね」
緑さんは、よく見るとまだ若そうなバーテンに声をかけると細長いメンソールに火をつけた。スッと通った鼻筋、大きな二重の目、キュッと締まった顎、そして肩まで届いているストレートの黒髪。シルクのうすいブラウスがそのふくらみのカーブを和らげてはいたものの、顔だちから想像していたよりもかなりボリュームがある胸は僕の鼓動を余計早くさせる。こんな人が僕のすぐ横に座っているなんて…。しかも二人っきりでお酒を飲むなんて…。確かさっきは「待ってたわ」って言った筈だよな。どういう意味なのかな?
 バーボンを飲む前から僕は頭に血が上ってしまっていた。
「お店成功するといいわね。カンパイ」
「ありがとうございます」
大きな氷が鼻に当たったが、途中でやめるとへんかなぁと、かまわずに飲み干そうとした。ウッとむせかえりそうになる。
「見に来て下さい。ご、ご案内します。学校を」
「ええ、楽しみだわ。私もみんなで騒ぐのあんまり好きじゃないんだけどこれは別。うちの支店みたいなものだものね。あなたが店長さん?」
「あっ、はい。そんなとこです。全体は先輩方が仕切ってますけど…。僕らは兵隊ですから」
「ねぇ、今度弓撃ってるとこ見せてよ」
「はい。いつでも来てください。僕はそんなうまくないけど…」
「人殺せるの?」
「ええ…。でも誰かいるんですか? そんな人が」
「私。殺して欲しいのよ。ふふっ、あなたできる?」
「……」
「死んだらどうなるのかしら? 知りたくない?」
「まだやることいっぱいあるから…」
「自分のお葬式って考えない?」
「どういうことですか?」
「今死んだら誰が一番悲しんでくれるかなって。家族は別だけど、予想もしなかったような人がものすごく悲しんでくれるかもしれないじゃない。そんなのを空中にふわふわ浮いて見ていたいなって。自分の存在がこの世でどれぐらいのものなのかって、それでわかるような気がするわ」
「自分の存在価値か…。それをわかるためにだけは死ねないけど…」
「私は時々考えるわ…」
何が緑さんをそういう気持ちにさせているかはわからない。でも、その時、『死』という言葉が彼女にとても似合っている感じがした。
 遠くを見ている目が悲しそうに光っていた。

 青木さんがいよいよ今日部屋に来る。練習は通常通り行われていて、文化際の前だからといって特別な配慮はない。射場での練習が終り、グランドでの筋トレ・ランニングをこなし、やれやれとホッとしたあと40人弱の円陣の中で青木主将が明日からのことについて心構えみたいなものを話した。主務の皆川さんが集合時間などの細かい日程について指示を伝えた。
『いよいよ明日からか。やるぞ! さあ、早く帰っていろいろ準備しなくちゃ』
 解散、の声で円陣が崩れかけたとき、
「1年残れ!」
の太い大きな声が響いた。ヤッベーぞ。こんな時に誰だ?一体なにやらかしたんだ?
 練習時のミスや不始末について1年は基本的に連帯責任なのだ。誰かがなにかをミスれば、それは全員に降りかかってくる。理不尽なと思うかもしれないが、そこが体育会たる由縁なのである。2年生が3人残ったが、あとの先輩たちはサッサと部室へ引き上げていく。みんなニヤニヤ笑いながら…。
「正座しろ!」
全員がコンクリートごつごつのグランドの横に一列に正座させられる。
「背筋のばせ! アゴひけ!」
どなっているのは三上先輩だ。普段から硬派で通している人だ。が、めったに怒らない人でもある。こりゃ、2 、3発くるか。でも、なんでだ?
「目つぶれ!」
衝撃に備えて歯をくいしばった。一列に並ばされた10人の1年の前を、三上さんが行ったり来りしている。もちろん見えない。あとの2人の先輩もどこにいるかわからない。しばらく無言で靴音だけが響く。これがかえって恐怖心を煽る。
「おい、三池。なんで正座させられたかわかるか」
「ハイッ、わかりません」
「わかりませんだぁ? バカヤロウ!」
「岡村!」
「わかりません!」
「呼んだだけだ。まだ聞いてねぇ。勝手に答えるな! おい、村田、おまえは?」
きちゃったよ。どうしよう。僕だってわからない。
「黙ってねぇでなんとか言ってみろ!」
「ハイ、すいませんでした!」
後が続かない。
「それだけかぁ! 胸に手あててよーく考えてみろ!」
「ハイッ」
正座させられている10人は、グランドを向いている。小声で返事をしようものなら、怒りが10倍ぐらいになってしまうので、みんなグランドに向かってどなり返すことになる。ウチの部のこの儀式は、グランドでまだ練習しているラグビー部や陸上部の連中にとっては、慣れっこ、いつものこと。またかよ、って思っているだろうな。カッコワリイなぁ、まったく。
「なぁ、おまえら」
土田先輩の声が左の方から聞こえたきた。静かな低いトーンでゆっくり話す。それがまたかえって不気味だ。この人は高校の時、空手部だったというウワサを聞いたことがある。膝に置いた拳におもわず力が入ってしまう。痛いだろうな…。
「ちょっとうわッついてねぇか? 明日からケヤキだってぇ。お祭りなんだってなぁ。そんなの関係ねぇだろう。ええ? 態度に出てるんだよ、練習がダレてんだよ。わかるかぁ、たるんでんだよぉ」
「な、俺たちは体育会なんだよ。祭りでございますって、チャラチャラやってらんねぇんだよ。リーグ戦負けたらどう始末つけんだぁ。そりゃケヤキはケヤキで勝手にやりゃあいいんだよ。ケジメがねぇんだよケジメが、おまえらは」
そう言われてみればそうかもしれない。ここ何日かは練習もうわのそらだった。特に僕は責任者ということで、知らず知らずのうちに思い上がりがあったのかもしれない。主将に気に入られた風に見られたのもやっぱり1年としては出過ぎたことなんだろうなぁ。痛いところを突かれたなぁ。
「わかってんのかっ!」
「ハイッ!」
三上さんの一喝で全員がグランドに向かって吠える。もうごつごつに20分以上は座っている。かなり痺れてきた。
「目あけろ!」
「グランド20周! タラタラやってんなよ!」
はじかれたようにみんなグランドに飛び出していく。が、痺れがひどく転ぶ者もいた。僕も半周ぐらいは足を引きずっていた。 
 結局、具体的なミスや不始末が僕たちにあったわけじゃなくて、一月に一回ぐらいの恒例となっている精神ぶったるみ引き締めの仕置きなのだ。
 練習をフルにやったあとの20周はかなりきつい。特に僕はケヤキの責任者で、準備だ、なんだではしゃいでいたんだから、みんなにも申し訳なかった。先輩からの睨みも厳しいだろう。意地と負けん気だけで、8キロを先頭で走りきった。フラフラでグランドに座り込む。消耗しきってしまった。周回遅れの岡村が苦しそうにまだ走っている。ゴメン、僕のせいだ。

 部室へ引き上げて、僕はみんなに会わせる顔がない気がした。黙ってうつむいて着替えだす。
「チクショー、三上のヤロー。頭きた! こんな時に嫌がらせみてえなことしやがって」
前園がロッカーを叩いて怒りだした。
『僕が悪いんだ、先輩に当たるなよ前園…』
でも言葉にはできなかった。ますますみんなの顔がまともに見られない。しばらく誰もしゃべらない。
「……」
「よーし、あいつらが腰抜かすぐらいのことやってやろうぜ。1年の根性見せてやろうぜ」
「ボク手伝うよ、前園」
岡村が嬉しそうだ。
「オウ、おれもやる。なあ、佐藤」
「ああ、おもしろそうじゃん」
三池や大西や佐藤やみんなも興奮し出した。僕は状況がよく飲み込めない。
「おい村田、なにしぼんでんだよ。おまえが仕切ってるんだろっ。やってやろうぜ」
佐藤に肩を叩かれて、いっきに目の奥が熱くなる。
「ああ」
もう、涙声寸前。流行らない青春ドラマみたいだなと思ったが、理屈抜きで単純に嬉しかった。

 青木さんとは7時に吉祥寺駅前で待ち合わせていた。気がつくともうあまり時間がない。今日はこれからが大変な時間なのだ。昨日まではそのことをからかったりしていた連中も、今はこれからの僕に降りかかってくるプレッシャーに同情し心配してくれていた。
 みんなを部室に残して駆け出す。まったく今日はよく走る日だ…。
 正確に7時きっかり。約束の本屋の前で青木さんは立ち読みしながら待っていた。
「お待たせしましたッ」
「2年にやられたな。走らされたか?」
先輩は笑っている。
「はい。大丈夫です」
「腹ごしらえするか。なにが食いたい?」
「はい。なんでも」
「緊張するな。獲って食おうってんじゃないんだから」
「はい」
結局、北京飯店というなにやら豪華な中華料理の店に先輩の後をついて入った。コース料理を注文する。背筋が伸びっぱなしで、テーブルに会話がない。そんなことはおかまいなしに青木さんはグラスのビールをうまそうに飲み干した。すかさず空になったグラスを満たさなくてはならない。先輩がポケットからタバコを取り出した。くわえるのと同時に僕は持っていたジッポーで火をさしだす。このタイミングをつかむのには結構神経を使う。先輩によって、タバコを取り出してくわえるリズムがまちまちで、ましてや主将に火をつけるチャンスはめったになかったから余計難しい。煙をはきだしながら、独り言をつぶやくように先輩は話し出した。
「主将っていうのは孤独な商売だぞ。わかるか? こうやって、おまえは緊張して口もきけない。攻めてるわけじゃないさ。俺も1年のときはそうだった。主将なんて聞いたら近づくのさえいやだったよ。存在が大きすぎて1年にはプレッシャーだったな。実際はたいしたことねぇんだけどな」
とはいっても「はい」と「いいえ」の呪縛からはなかなか逃れられず、あいかわらずあいづちを打つだけで精一杯だった。次々に料理が運ばれてくる。
 青木さんは円卓をくるくる回しながら、いろいろ話してくれた。弓のこと、音楽のこと、1年の時の思い出や失敗談、自分の将来のこと。一つ一つの話しがみんな面白くて、今まで青木さんに抱いていた畏怖が、憧れのようなものに僕の中で変化していった。エビのチリソース炒めをほおばりながら、かっこいい人だなあ…って思う。
「腹は膨れたか? よし、次だ」
「次…? ですか?」
「いいからついて来い。うーん、そのスタジャンはちょっとマズいなあ」
「大丈夫です。下、着てますから」
学校名とクラブのロゴが背中にばっちり入ったスタジアムジャンバーを脱いで、トレーナー姿になった。おっとトレーナーにもロゴが入っている。裏返して着る。どういう所なんだろう? 学校やクラブを伏せる必要があるってことは……。ドキドキするなぁ。

 吉祥寺駅北口、西荻窪寄りの近鉄百貨店の裏側一帯は、スポーツ新聞や週刊誌の風俗特集でおなじみの一大歓楽街だ。僕は今、ネオンの賑やかな洪水の中、キョロキョロしながらそこを連れられて歩いている。仕事帰りのサラリーマン風の人たちで、結構賑わっていて活気があった。先輩はそのがっちりした背中を僕に向けて悠然と、人の波をかきわけるように進んでいる。「ついて来い」のセリフがピッタリとハマッた見事な後姿だった。さすがだなぁ。
「ここだ」
真っ赤なぽってりした、いかにも悩ましげな感じの英文ロゴで『Girl-Girl』の看板がデカデカと出ている。呼び込みの男が揉み手をしてニヤニヤ笑っていた。
「ええっ、ここ入るんですか?」
「俺のマネしとけ。あとは女の子の言うとおりにしてればいいんだ。心配すんな」
 ドアを開けると耳をつんざくような音楽が流れていて、薄暗く何があるかよくわからない。先輩は、ブラックの蝶タイとベストを着たボーイ風の男となにやら交渉している。ぺこぺこボーイがおじぎをして奥へ案内された。ちっちゃなテーブルを囲むようにボックス状のソファーがあり、そこに座る。ビールとおつまみが運ばれてきた後、しばらくすると暗闇から飛び出すように二人の女の子が現われた。
「いらっしゃい! ユミでーす」
て言ったんだと思う。小柄でポッチャリの方が投げキッスを送ってくるが、とにかく音楽が大きすぎてほとんど聞き取れない。暗闇に目が慣れてきて、やっと周りが見えてくる。先輩はスラッとした女の子を膝の上に乗せてビールを飲んでいる。髪は長いが顔は見えない。
「ねぇ、ビールいただいてもいい?」
突然、耳元2センチぐらいに口をつけられて、がなられた。
「どうぞ」
と言ったが自分の耳にも届かない。とにかくやかましい。難聴になりそうだ。
「ねぇ、いくつなの?」
今度は耳を舐められた。若すぎるとバカにされそうなので、
「ハ・タ・チ!」
と、どなり返す。
「ユミちゃんは?」
「あたしクミよ。18」
ウソつけ。どう見たって25、6だぞ。おいおい、膝に乗るな。やけに重たいヤツだな。
 クミちゃんはたぶんグリーンで(暗くてよくわからない)、ガフガフのムウムウみたいなのと、パンティを着けているだけだった。香水の匂いがやたらにきつい。僕の足は細すぎて居心地が悪かったのか、膝から降りると狭いボックスシートの右側にむりやり並んで座り、右手ですかさず股間をさわってくる。
「元気になってるじゃない。かわいがってあげる」
「いいよ…」
青木さんは、と見ると、女の子がソファの上に先輩と向き合う形で立ちあがり、パンティだけになって先輩の顔に腰をこすりつけるようにして踊っている。しかも先輩はその下着を引きずり降ろそうと躍起になっているみたいだったが、女の子は足を開いて立っている訳だから簡単にいくはずがない。こりゃスゴイ。あっけにとられて見ていると、こっちは下の方でごそごそやっている。勝手にチャックを下ろしてつまみだそうとしていた。思わず腰を引く。
「大丈夫よ、お友達には見えないから。あなたかわいいから特別よ」
「おっぱいさわってもいいわよ。これ、手、入れやすいでしょ」
もう言葉がでない。教えられた通り、言いなりになっていよう。開き直る。ムウムウのすき間から手を入れて、左手でさわらせていただいた。汗ばんでいた。でもなんか事務的にさわらせているような感じが拭えず、突き上げるような興奮とは程遠い。下の方はとうとう引っぱり出されてしまった。
「まあ、青筋立てちゃって。たのもしいわねぇ」
クミちゃんは持っていた花柄のポーチから、化粧水の小瓶の様なものを取り出して、中味を右手につけると、汚れないようにズボンの上に乾いたタオルをかけてくれる。透明の液体をつけた右手でギュと握られリズミカルに動かし始めた。これはベビーオイルみたいなものかなぁ。緩急自在の変化をつけながらも機械のように手が動く。さすがプロ。アッという間に限界点が近づいて、
「ちょっと待った!」
と腰を引こうとしたが容赦はない。いっきにスピードをアップされてあえなく暴発。おしぼりで受けるタイミングもまた見事だった。発射の後の虚しさは男なら誰でもわかるだろう。どっと落ち込んだ。
「お友達には内緒よ。ふつうは延長しないとやんないんだけど、あなたかわいいからね」
「……」
「ビール飲む?」
「……」
「あなた、こういうとこ初めてなの? あっそう」
「……」
「ちょっと強烈すぎたかなぁ、ゴメンネ」
「……」
「クミさん、どこに住んでんの?」
「ここよ。吉祥寺。東急の通りを、あのなんとかっていう大学の方へ行ったとこ。予備校の寮が近くにあるとこよ。知ってる? 友達と二人で住んでんの」
「それって…、同棲?」
「違うわよ。女とよ」
「彼氏とかいないの?」
「ふふっ。あなたなってくれてもいいわよ。こういうの毎日やってあげられるよ」
「……」
 青木さんはソファの上でアクロバットをやっているみたいで、どうなっているのか、まぁ暗いせいもあってよくわからない。僕は最初にいきなりやることやってしまい、元気がなくなってクミさんと顔をくっつけてお互い耳にかじりつくように話し込んでいた。
 ボーイが灰皿を取り替えにきて、クミさんと先輩の方の女の子に耳打ちして行った。5千円で1時間延長とクミさんから言われ、どうしようと戸惑っていると、青木さんは時計を見ながら目くばせをして断われと合図してきた。その頃には落ち込みは直っていて、逆に後半戦妙に打ち解けて話しをしてくれたクミさんに親近感さえ感じていた。
「また来ていい?」
「いいわよ、大歓迎よ。これあげとく」
店の名の横に『クミ』とボールペンで手書きされた名刺をくれた。微笑んで名残惜しそうに僕の顔を見つめていたクミさんは、
「ちょっと待ってネ」
と、名刺を取り返すとなにか走り書きしている。
「これ、アパートの番号。よかったら電話して。日曜とかヒマなの」
「うん。普段は何時ごろ終わるの?」
「12時で閉店だから1時半頃までには帰ってる」
「ほんとは僕、学生だからお金ないしお店にはそんなに来られないなあ、たぶん」
「わかってたわよ、ハタチなんてウソでしょ。私だってほんとはずっとお姉さんなのよ」
「なんでこんなことしてるの?」
「そういうことは聞かないの。でも、あなた不思議な人ね、お客って感じがしないのよ」
「今日はありがとう」
「バカね、そんなこと言う人いないわよ。あたしたち仕事なんだから…」
 予定の時間はアッという間で、ボーイが催促に来た。握っていたクミさんの手をはなしたくない気がしたが、先輩がサイフを出して出口の方へ向かったので、はじかれたように立ち上がって後に続いた。
いやー、さすがに今日は疲れた。いろいろありすぎた。でも、これから部屋に青木さんを泊めるのだ。いやはや……。先輩を案内して井の頭公園の方へ歩き出す。
「おもしろかったか?」
「はい。こういう所初めてだったものですから…。いろいろごちそうさまでした」
「ごちそうさまはよかったな、ハハハハハハ」
「よくいらっしゃるんですか?」
「いらっしゃる? ハハハ。そんなとこに敬語使うな。俺も1年の時、先輩に連れられてきたのが初めてだよ。最近はご無沙汰だな。通いつめるようでも困るけどな。おまえも先輩になったら下のを勉強に連れてきてやるんだな」
そんな器量は僕にはない。この小心者はこの先どうなるのだろう。
 主将に対する緊張がだいぶやわらいで、部屋に着く頃にはなんとか会話になってきた。もちろん部屋はきれいに掃除されていて、ピカピカの状態で先輩を迎え入れられるようになっている。
「ホウ、なかなかきれいに住んでるな。こりゃあ快適だなあ」
「ありがとうございます。今、お風呂沸かしますから」
「風呂あるのか? 贅沢なヤツだな」
「でも、ボロボロですよ。家賃そんなしませんから…」
「おまえらしい部屋だな。気に入ったよ。これは? おまえ自転車やるのか?」
「あ、いや、色を塗り変えようと思って…」
僕は田舎から持ってきた黒のセミドロップハンドルの自転車を色を塗り変えて使おうと思い、分解して一番奥の板の間の隅に置いてあったのだ。
「先輩は自転車お好きなんですか?」
「ああ。好きなんていうレベルじゃないさ。ずいぶん凝ったよ。フレームを特注したり。部品一つ一つを自分でそろえて組んでいくんだ。イタリアのカンパていうのがあってな」
「カンパニョロですか」
「結構知ってるな。カンパのギアはきれいなんだ、美しいんだよ。それでそろえたりすると、これがまた結構高い」
「凄いですね。僕なんか友達の受け売りでから…、でもわかります。少しは」
「このチェーンははずさないのか?」
「はずれないんです、それ以上」
「これはなあ、チェーンカッターがないと取れないぞ。今度貸してやろう」
先輩は自転車の話が止まらなくなってしまい、楽しそうだ。とにかく話がおもしろい。想像していた、先輩と過ごす堅苦しい夜は、まったく違う展開になっていく。
『山下先輩は、一体何を心配していたんだろう?』
話しが一段落した青木さんにお風呂を勧め、その間、しみじみ考えてみたがやっぱりわからない。思いきって直接聞いてみるのもいいかもしれない。今の青木さんだったら教えてくれそうな気がした。
 僕がお風呂で汗を流した後も、先輩はずいぶんごきげんで話の切れ目がない。主将としてでない青木さんが、後輩としてでない話し相手を見つけて、今まで語れなかったかった自分を思う存分出している。そんな感じだった。「孤独な商売だ」と言ったあの言葉が実感としてわかるような気がしたな。

「村田…。俺が泊るのは今日だけにしておこう」
「えっ、なんか失礼がありましたか?」
「いや。せっかくの文化祭に彼女が遊びに来れないようでもなあ」
「そんなことは…」
「部屋を見ればわかるさ。色違いの歯ブラシなんてかわいいもんじゃねぇか。もうちょっと上手に隠しとけ」
「あれは…」
「そればっかりじゃないから心配するな。1年のおまえの所に4日もいたら、なにかと波風がたつだろう。その辺を深く考えずに決めたのは軽率だったよ。今日まででも、だいぶ迷惑をかけたかもしれないな。それに俺は調布だから実はそんなに遠くないんだ。今度の事は俺のきまぐれで決めたようなもんだったんだ。悪かったな」
「そんな…」
「先輩、山下さんのことなんですけど…」
「ん、山下? アイツがどうした?」
「はい。なんかすごく僕のことを気遣ってくれてるというか、心配してくれて。今度のことを」
「山下がおまえの事を心配?」
「はい。青木さんが泊りにいらっしゃることで…」
「アッハハハハハハ、そうか。アッハハハハハハ、アッハハハハハハ」
「なんなんですか?」
「アッハハハハハ、なんて言われた? 俺にオカマ掘られるとでも言われたか? ハハハハ」
「そんな感じがしないでもなかったんですが… ちょっと覚悟しちゃったというか、主将なので…」
「じゃあ、おまえは今まで結構ビビッて俺といたのか?」
「いや、そんな…。今日はいろいろありすぎてそこまで頭がまわらなかったと言うか、忘れてました。先輩のお話しもおもしろくって」
「あのなあ、山下はな、あんな顔してるけど真面目ないい男でな、おまえみたいに去年連れてってやったんだよ。でも、それが二丁目のオカマバーだったのがいけなかったんだな。アッハハハハハハ、アッハハハハハハ。俺は高校の時からあんな所は出入りしてるけど、アイツにとってはショックだったんだろうなあ。ベロベロだったからよく覚えてないけど、ヒゲの濃いおっさんみたいのとブチューってやっちゃったし、かなりきわどいとこを見られたかもしれないからな。それでアイツ俺のことを勘違いしてるんだ。アッハハハハハハ。たぶん2年の連中もそれ聞いてるんじゃねぇか」
「はあ…」
「とにかく真面目なんだよアイツは。俺はいろんなことやってたからなあ、3年になるまでは。酔っぱらって山下の部屋に転がり込んで、いやがるのを押さえてキスしたこともあるし。アッハハハハ。かわいい後輩への親愛の気持ちなんだけどな。俺は主将になるなんて思ってなかったからメチャクチャやってたんだよ。アイツにとっちゃ、俺は変態なんだろうな、たぶん。でもホモっ気が出てもしょうがないようないい男だろ、アイツは」
「はあ」
「おそらく山下はあのルックスでいまだ童貞じゃねぇか。いや、そういうヤツなんだ。小心者なんだよ。心配しすぎなんだよ。だから、おまえに気遣ったというのはそういうことだろう、たぶん。アイツの考え過ぎだ。アッハハハハ。いいヤツじゃねぇか」
「はい」
「そうか、そういう意味でもおまえは大変に思われていたんだな。まったく俺のことを本当に変態扱いしやがって。ハハハハハ」
「少しホッとしました。なんかはっきりしないものがあって、もどかしかったんですけど」
「山下はもったいないよ。あれで彼女とか特定のがいまだにいないんだからなぁ。まあ、それがアイツの純なところなんだけどな。もてるばっかりで自分からは何もしないんだからなぁ」
「羨ましい話ですよねぇ」
「おまえは彼女とはどうなんだ? もう長いのか?」
「はあ…、いぇ、まあ」
「ちゃんとやってるか? なんだ、なにも照れることはないさ。誰だってやるんだ。だけどな、女を愛するってことを半端にやるなよ。一生懸命、必死でやれ。遊ぶな。子宮が下がってくるぐらいやれ」
「なんですか、それ?」
「ほんとうに女が感じてくるとな、先っぽに当たるんだ。子宮の壁が、そこまで降りてくるんだ。気持ちをそそぎ込まなきゃ、こうはいかない。そういうのをやらなきゃ男じゃない。女をほんとに愛するってことはそういうことだ。わかるか? 勢いで、やりたいからやったっていうのはやるな。女なら誰でもいいからやるってのと同じだ。動かせばいいってもんじゃないだろう。気持ちを込められるようにしっかりやれ。自信あるか?」
「いえ、あの、わかりません…」
「まぁ、いい。俺はそうしてるってことだ。余計なことかもな、気にすんな」

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